すべてはあの花のために①
七章 牡丹と菊
『さあ! 逃げられるもんなら逃げてみなさあーい!』
――桜庭。その名を聞けば、この界隈に住む人々は、口を揃えてこう言うだろう。
“……ああ! あの有名な!”
桜ヶ丘を代表する『大企業』が海棠なら、長い歴史の中、代々受け継がれた『血力』を守り続ける由緒正しき名家。それが桜庭。
本家を桜に置く彼らを、この一帯や同業者で知らない人はいない。それほど名の馳せた名門なのだ。
『お、おいキサ! ずるいぞ!』
『いや、流石の俺も菊相手じゃコンパスが違い過ぎだし』
『何言ってんの! あたしと菊ちゃんは、……えっと、さんみいったい?』
『一心同体』
『そうそれだから!』
『(いや、それって)』
『(女王様に逆らえなかっただけだろ。俺だって無理)』
『何か言った?』
『いいえ!』
『何も!』
そんな名家の分家で、近所に住む彼らと楽しくドロケイをしていた、桜庭家の長女キサ――あたしは、この時はまだ、何も知らなかったんだ。
そして、知ってしまうにはまだ……幼過ぎた。
『紀紗ちゃん。何してるの?』
『けらいをみつくろっているの』
『家来?』
『そーよ? ひとりおにんぎょうで遊ぶのもあきちゃったしっ。つかまえてみんなで遊ぶの!』
その日あたしは、母の実家に来ていた。いつもなら父と家で留守番をするのだけれど、生憎この日はどうしてもお休みできない仕事があったらしい。
近所に住む幼馴染みたちも、出かけているのかこの日ばかりは全員出払っており。一人でお留守番するよと言っても、母の難しい顔は直らなかった。
『そうなんだ。じゃあ名前付けてあげないといけないね』
『もうきめてるの! これがちかでー、これがきくちゃんでー、それでこれがー』
母が親戚の人たちと会っている間、一人で遊んでいたあたしに声をかけたのは、きっとお守り役の人だろう。虫籠に捕まえた彼らを指差しながら、楽しげに笑うあたしを見て、その人も楽しそうに笑っていた。
てっきり大人ばかりだと思っていたので、知り合いの幼馴染みくらいのお兄さんに、あっという間に心を開いていた。
『……お母さんの顔が怖い?』
『そう! おとうさんとけんかした時の方が、もっともっとこわいけど』
『その原因を、紀紗ちゃんは知りたいんだね』
『うん。だってだって、おかあさんね? 笑ったおかおすーっごくかわいいんだよ!』
『紀紗ちゃんだって可愛いよ』
『…………』
『あれ。変なこと言った?』
『そういうのなんて言うか、あたししってる。キザって言うのよ』
『紀紗ちゃんだけに?』
『…………』
『うわあ。あからさまに嫌な顔しないでよ』
『(やっぱりひとりで遊んでよう)』
『ごめんごめん。お詫びに、お母さんの顔が怖い原因。教えてあげるから』
『え! わ、わかるの?』
『うん。その代わり、お父さんとお母さんには、内緒だよ』
『うんっ!』
『それじゃあ、耳貸して』
『うんうんっ』
『紀紗ちゃんのお母さんの、顔が怖ーい原因はねえ……』
『――――!』
――……あたしの、せい……?