すべてはあの花のために①

sideキク




 ――17年前。


「なあ父ちゃん、知ってる? 桜庭さん家、赤ちゃんが来た(、、)んだって」


 古いアパートの一室。六畳一間の隅っこで、膝の上で宿題をしながら独り言のように呟く。


「……父ちゃん?」


 返ってこない返事に顔を上げると、父はふっと嬉しそうに頬を緩めながら、プシュッと缶ビールを開けた。


「名前は」

「きさって、言うんだって」

「あ?」

「だから、きさちゃん」

「そうかい」


 そして父は、また嬉しげに缶ビールを呷った。


「んじゃ、これから仲良くしてやれよ」

「それはもう、これでもかと言うほど言われた」

「ははっ。そうかいそうかい」

「てか、なんでそんなに嬉しそうなんだよ」

「そりゃおめえ、友人に子どもができた(、、、)っていうんだ。嬉しいに決まってんだろ?」

「いや、そうだけどさ」


 父がやけにご機嫌な理由は、大抵決まっていた。
 きっと、母のことを思い出していたのだろう。


「……まあ、ちょっとな?」

「ふーん」


 母は、オレを産んですぐにこの世を去った。元々体が弱く、子どもを産むなんてことは奇跡でも起きない限り難しいと。妊娠がわかってから産むまでずっと、母は言われ続けたらしい。
 きっとオレは、母を死なせてしまったからこんな名前を付けられたんだろう。そんな名前を付けた両親が、この時はまだ嫌いだった。苦手だった。


「男の子だってな! おめでとう!」

「ああ。ありがとな」


 桜庭家に女の子がやってきた翌年。今度は柊の家にも男の子が生まれたって言うもんだから、その頃近所では毎日のようにどんちゃん騒ぎ。子どもができる度嬉しそうにする父たちを相手にするのは、正直本気で面倒くさかったけど。


「千風とも、仲良くしてやってくれな」

「わかったわかった」


 兄弟がいなかったオレにとっては、本物の弟や妹ができたみたいで、本当に嬉しかった。


「……にしても、キサねえ」


 宴会がお開きになった帰り道。ふと天を仰ぐように空を見つめた父は、そこでまたふっと笑った。
 いつもいつもだらけていて、笑ってもだらしなさげにふにゃふにゃしてるだけなのに。その時の笑顔は、飛び切りやさしかった。

 まるで、誰かと一緒に、笑ってるみたいな。


「菊」

「なに?」

「おめえじゃねーよ。菊の花」

「まぎらわしい」

「父ちゃんと母ちゃんの、大好きな花」

「……え?」

「そうだ! あれは忘れもしねーお彼岸のおー!」

「と、父ちゃん声! 声でけえって!」


 そして、酔った父が勝手に語り始めた、父と母の出会いの話。ベロベロだったし、あの時話したことが父の記憶に残っていたのかは、結局聞いたことはなかったけれど。

 でも両親にとって菊の花が、二人の出会いであり、大事な花だったと知ったオレは、いつもそのことを思い出すと胸がむず痒くなった。そして同時に、いつも誇らしかった。


 そんな父も、オレが小学校を卒業するのを待たずして、母の元へと行ってしまったけれど。


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