春風とおにぎり
 春が訪れたことを知らせるように、優しい風が町を吹き抜けていた。桜のつぼみはほころびはじめ、通学路にはうっすらと花びらのじゅうたんができている。そんなある日の午後、町はずれの公園に、一人の小さなおばあちゃんが腰を下ろしていた。

ベンチは木製で、少し古びていて、座るときにギシリと音を立てる。だが、おばあちゃんにとっては慣れ親しんだ場所だ。毎週火曜日の午後、この公園に来ては、ベンチでのんびり過ごすのが日課になっている。

手には、風呂敷に包まれたお弁当。中身は、自分で握ったおにぎりが二つ。それと、ぬか漬けを少し。今日の具は、昔から変わらない梅干しとツナマヨだ。

おばあちゃんの名は、さと子。七十をとうに越えているが、背筋はしゃんとしていて、白髪をきれいにまとめている。着ているのは、淡いピンクのカーディガンと、紺のスカート。春の日差しの中で、どこか柔らかな光をまとっているように見える。

そのときだった。ベンチの前の砂利道を、ランドセルを背負った男の子がトボトボと歩いてきた。靴は泥だらけで、肩は小さく落ちている。まるで世界に背を向けるように、視線を下げて歩いていた。

さと子はふと、その姿に目を留めた。

「こんにちは」

男の子はぴたりと足を止めた。驚いたように顔を上げると、おばあちゃんを見た。

「……こんにちは」

声は小さく、どこか元気がない。

「学校帰りかい?」

男の子は、こくりとうなずいた。

「疲れた顔してるね。ちょっと、ここで休んでいったらどうかしら」

さと子はにこやかにベンチの隣をぽんぽんと叩いた。

少し迷った様子を見せた男の子だったが、ためらいがちにベンチに座った。ランドセルが重そうに背中にのしかかっている。

「名前、聞いてもいい?」

「……はると」

「はると君。いい名前だね。私はさと子っていうの。よろしくね」
「……よろしく、さと子さん」

はるとは少し照れたように言った。その表情に、さと子は優しい目を細めた。

「お腹、空いてない?」

「……ちょっとだけ」

「よかったら、おにぎり一つ食べる? 二つ持ってきたけど、どうも今日はあんまり食べられそうにないのよ」

「えっ、いいの?」

「もちろん。昔からね、こうやって誰かと分け合うのが好きなの」

さと子は風呂敷を丁寧に広げると、竹皮に包まれたおにぎりを取り出した。ほんのりとまだ温かい。手作りならではの、ちょっといびつな丸み。梅干しとツナマヨ、それぞれに海苔が巻かれている。

「どっちが好き?」

「……ツナマヨ」

「ふふ、やっぱり今の子はそう言うのね。さあ、どうぞ」

はるとは「いただきます」と小さな声で言い、おにぎりを両手で持ってかじった。

もぐもぐ。ぱくっ。少し黙ったまま、黙々と食べ続ける。

「……おいしい」

ぽつりと呟いたその一言に、さと子は心の中で「よかった」とつぶやいた。

「今日は、何かあったのかしら?」

はるとは、口の中をもぐもぐさせたまま、少し考えてから、ぽつりぽつりと話し始めた。

「……今日、漢字テストがあって、全然できなかったんだ。あと、体育の時間に縄跳びの八の字跳びっていうの、みんなできるのに、ぼく、ひとりだけ引っかかっちゃって」

その目が、少し潤んでいた。

「……恥ずかしかったし、悔しかった」

さと子は、はるとの肩にそっと手を置いた。

「そうだったのね。うまくいかない日って、誰にでもあるわよ」

「でも……みんなに笑われて。先生にも“もっと練習しなさい”って言われたけど、なんか……やる気がなくなっちゃって」

その言葉に、さと子は少しうなずいて、ゆっくりと話し始めた。

「私にもね、そんな日があったの。あなたぐらいの年のころ……ううん、大人になってからもいっぱいあったわ」

「……さと子さんにも?」

「ええ。昔ね、商店街の小さな文房具屋をやっていたの。でも、大きな店ができて、お客さんが減って……。頑張っても、空回りするばかりで、毎日泣いていたわ」

「泣いたの?」

「うふふ、泣いたのよ。でもある日、お店に来てくれた女の子が、『さと子さんのノート、すっごく好き!』って言ってくれて。それだけでね、また頑張ろうって思えたの」

はるとは黙って、おにぎりの残りをゆっくり食べながら聞いていた。

「だからね、誰かに笑われたって、失敗したって、今日のことが全部ダメってことじゃないの。ひとつでも、頑張ったって思えることがあれば、それで十分」

春風がまた吹いた。桜の花びらが、ふわりと舞い上がり、はるとの肩にもひとひら落ちてきた。

「……ぼく、頑張ったのかな」

「今日も学校に行って、ちゃんと授業を受けた。それだけで十分頑張ったわよ」

はるとは少しだけ目を見開いて、それからにこっと笑った。さっきまで曇っていた顔に、少しだけ陽が射したようだった。

「……さと子さん、ありがとう」

「どういたしまして」

「また、ここに来てもいい?」

「もちろんよ。おにぎり、また握ってくるわね」


今日は久しぶりの晴れ。公園のベンチに、小さなおばあちゃんがちょこんと座っていた。手には手作りのおにぎりが二つ。

そこへ、小学生くらいの男の子がやってきた。ランドセルを背負っていて、靴が泥だらけ。

「こんにちは、おばあちゃん」

「まあ、こんにちは。学校帰りかい?」

「うん。今日はね、嫌なことがあったんだ」

おばあちゃんはにこりと笑って、隣のスペースをぽんぽんと叩いた。

「ちょっと休んでいきなさい。おにぎり、食べるかい?」

男の子は一瞬戸惑ったが、お腹が鳴った。顔を真っ赤にして、こくんとうなずいた。

「ありがとう…」

一つは梅干し、もう一つはツナマヨ。男の子は迷ったあげく、ツナマヨを選んだ。

「どうして今日は嫌だったの?」

「うまくできなかったんだ。漢字も、縄跳びも」

「ふふ、それは大変だったね。でも、できなくても頑張ったのなら、それでいいんだよ」

男の子はもぐもぐと食べながら、小さく笑った。

春風がふわりと吹いて、桜の花びらがひらひらと舞った。

「また明日、頑張ってみる」

「うん、そうだね。頑張りすぎず、でも諦めずに」

おにぎりがなくなる頃には、男の子の顔にも、春の日差しのようなやわらかい笑顔が戻っていた。


次の週の火曜日、さと子がいつものようにベンチに座っていると、ランドセルを背負ったはるとが、軽やかな足取りでやってきた。

「こんにちは、さと子さん!」

「まあ、元気そうね。今日はいいことがあったのかしら?」

「うん!漢字テスト、前より10点上がったんだ!」

「それはすごい!頑張ったのね」

「ツナマヨのおにぎりのおかげだよ。あの日、さと子さんと話して、ちょっと元気出たから」

「それはうれしいこと言ってくれるわね」

その日から、はるとは毎週火曜日、公園に寄るようになった。

さと子は毎回、おにぎりを二つ持ってきた。ツナマヨははると用、梅干しは自分用。二人はベンチに並んで座って、おにぎりを食べながらいろいろな話をした。

学校のこと、好きなゲームの話、将来なりたい夢。ある日、はるとはこう言った。

「将来ね、小学校の先生になりたいって思ってるんだ」

「まあ、素敵ね。どうしてそう思ったの?」

「ぼくみたいに、ちょっとだけ不器用な子がいても、その子のいいところを見つけられる先生になりたい。さと子さんが、ぼくのいいところを見てくれたみたいに」

さと子は、その言葉に胸を打たれた。静かに目を細めて、はるとの頭を軽くなでた。

「あなたなら、きっとなれるわ。いい先生にね」

春が過ぎ、初夏の気配が近づいてくるころ、さと子の姿が、火曜日の公園に現れない日があった。次の週も、またその次の週も。

「……さと子さん、どうしたんだろう」

はるとは心配でたまらなかった。思い切って、文房具屋があった場所に向かってみた。そこはもう、閉店して久しい。扉には「ありがとう」の貼り紙が色あせて残っているだけだった。

その日の夜、母にそれとなく話してみた。すると母は
「ああ、さと子さんなら、入院されてるって聞いたことがあるよ」と言った。

「病院……?」

胸がきゅっと締めつけられた。

数日後、勇気を出して母と一緒に、その病院を訪ねた。白い廊下の奥、小さな個室に、少しだけやせたさと子がいた。

「……はると君?」

「さと子さん!」

はるとは駆け寄って、ベッドのそばに立った。

「来てくれて、ありがとう。ごめんね、ちゃんとお別れ言えなくて……」

「病気だったの?大丈夫?」

「少し、体が疲れただけよ。でも、あなたに会えてよかった」

「ぼく、おにぎり持ってきたんだ。今日は、梅干しとツナマヨ!」

さと子は驚いたように笑った。

「まあ、あなたが作ってくれたの?」

「うん!お母さんに教えてもらった。今日はぼくがさと子さんに元気をあげたかったんだ」

差し出されたおにぎりは少し形が崩れていたけれど、きちんと海苔が巻かれていて、ふわっとした温もりが手に伝わってくる。

さと子は手を震わせながらそれを受け取り、小さくかじった。

「……おいしいわ。本当に、おいしい」

その目には、涙が浮かんでいた。

はるとは黙ってさと子の手を握った。

「元気になったら、また一緒に公園で食べようね」

「ええ、きっと。また一緒に──」


それから数週間後。

公園のベンチには、はるとがひとり座っていた。手には二つのおにぎり。ツナマヨと、梅干し。

風が優しく吹いて、桜の葉が揺れている。

「さと子さん、今日も晴れてるよ」

空を見上げて、はるとはにっこりと微笑んだ。

彼の背中は、少しだけ大きくなったように見えた。
< 1 / 1 >

ひとこと感想を投票しよう!

あなたはこの作品を・・・

と評価しました。
すべての感想数:2

この作品の感想を3つまで選択できます。

この作家の他の作品

忘れられたぬいぐるみの旅

総文字数/1,915

絵本・童話1ページ

表紙を見る
表紙を見る
堕ちていく

総文字数/8,626

恋愛(純愛)5ページ

表紙を見る

この作品を見ている人にオススメ

読み込み中…

この作品のキーワード

この作品をシェア

pagetop