氷壁エリートの夜の顔

第23話 影

 私には、一つだけ嫌いな言葉がある。──それは「詰んだ」だ。

 アメリカのドラマで、敏腕弁護士が言っていた。銃を頭に突きつけられたら? もっと大きな銃を抜けばいい。ハッタリだと笑ってやればいい。方法なんて、ほかにも146通りはある、と。

 私はタクシーを待ちながら空を見上げた。
 月が出ていたら、もう少しましな気持ちでいられたかもしれない。でも、今夜の空は曇っていた。

──それでも、まだ詰んでいない。
 まだ、選べるはずだ。最良の一手を。

 柚月から連絡が入ったとき、私はすぐにタクシーを呼んだ。
 病院へ向かうあいだの記憶はほとんどない。膝に肘を乗せ、ただ顔を覆っていた。

 到着して、震える指先でカードを差し出す。
 降り際、それまで沈黙を守っていた運転手さんが、ふと口を開いた。

「この時間は……心が追いつきませんよね」

 低く、穏やかな声だった。
 レシートを受け取りながら吸い込んだ息が、喉の奥でわずかに震えた。
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