敵将に拾われた声なき令嬢、異国の屋敷で静かに愛されていく
第一話
 声を出さない自分を、誰もが臆病だと笑った。けれどこの沈黙は、ティナにとって唯一の武器だった。

 いま、この重苦しい会議室でも、ティナは一言も声を発していない。それが彼女に与えられた使命だった。

 会話の切れ目を縫うように、何人もの視線がティナに突き刺さる。和平交渉の場に、女の姿はなかった。貴族の代表、軍の高官、そして国外から招かれた使節たち。その誰もが、ティナの存在に眉をひそめている。

 なぜ、フロレンティーナ・カリスト公爵令嬢がここにいるのか。戦場を知らぬ若い娘に、和平交渉などできるはずがないと。

 声を持たない自分が期待されないことは百も承知だったが、ティナは動じなかった。黙って椅子に座り、視線を正面に向けたまま、耳をそば立てていた。

 言葉は話せなくても、この場の空気を読み、正しく危機を感じ取ることができる。それは、教育熱心とは言えない父の、日々の小言から得た知識によるものだった。

 暴君として恐れられる国王に仕える父は、宰相に並ぶ重鎮のひとりであった。その父のぼやきを、ティナは聞き流さずに記憶してきた。宮殿内で渦巻く貴族たちの思惑や陰口──積み重ねた知識が、今も静かに彼女を支えている。

 ティナは、テーブルを挟んで向かいに座るひとりの男に視線を注いだ。

 黒に近い濃紺の制服を身にまとい、鋭い目つきで使節団をうかがう彼は、周囲とは明らかに異なる空気をまとっている。その男の視線がティナの方へと向けられたとき、隣に座るルシアン・ラビエールがわざとらしい口調でつぶやく。

「あの男……、さっきからカリスト嬢をやたらと見ていますね」

 ティナは、どこか無遠慮な男の視線を受け止めながらも表情を変えずに黙し、ルシアンの話に耳を傾ける。

「あれは、ラスフォード・エイルズ。平民上がりの騎士団長ですよ」

 そうあざけるように言うルシアンは、侯爵家出身の宰相補佐であり、隣国との紛争を終わらせるための和平交渉の場にティナを引きずり出した張本人だ。そんな彼がカリスト公爵家を訪れたのは、数日前のことだった。

 その日は朝から雪が降っていた。深々と降り続く雪が屋敷全体を冷やし、部屋の暖炉は一日中絶やすことなく薪が焚かれていた。

 窓際の椅子に腰かけて、ティナは日課になっている読書をしていた。というのも、ティナは今年23歳になる公爵令嬢であったが、貴族の令嬢としてはそろそろ行き遅れと囁かれる年齢であるにもかかわらず、幼いころから続く失声症のため、嫁ぎ先が思うように決まらなかった。

 声の出ない令嬢に、義母は冷たく、父は見て見ぬふりをし、義妹は決して深く関わらない。誰の邪魔にもならない読書の時間だけが、ティナに許されたささやかな自由だった。

「お嬢様、少し息をつかれては? 温かい紅茶をお持ちしましたよ」

 好きで架空の物語を読んでいるだけなのに、難しい学術書とにらめっこしているとでも思っているのだろうか。──まあ、実際、そうした難読書にも時折目を通してはいるのだが。乳母のマリスが、ティーカップの乗った盆を手に部屋へ入ってくる。

(マリスだけね、気にかけてくれるのは)

 メイド服に身を包む恰幅のいいマリスを見つめながら、心の中でつぶやくと、ティナは感謝の気持ちを伝えるようにそっと笑む。そのとき、ティナは騒がしい気配に気づき、開いているドアへと目を移すと、すぐさま、手元にある木製の小型ボードに、炭筆を走らせる。

『客人?』

 マリスとの筆談にだけ使われる木製のボードは縁が欠けていたが、新しいものに変えたいと望むことは、義母の機嫌を損ねるとわかっていて言えなかった。足りなくなれば、炭筆を用意してもらえるだけでもありがたかった。

 ドアの向こうから、いくつかの硬い靴音と、誰かが低く指示を出すような声が聞こえてくる。

「旦那様がお倒れになってから、来客の訪問はお断りしていたはずですが」

 廊下をのぞき込むマリスは、気がかりそうにつぶやいた。

 彼女はティナの乳母として義母から嫌われていたが、ほかのメイドからは温厚な性格と豊富な知識を持つために慕われている。彼女のもとには日々、情報が入る。その彼女が、把握してない訪問者にものものしい気配を感じるのは仕方のないことだった。

 本格的な冬が始まる前、父であるレオニス・カリスト公爵は病に倒れた。国王からの度重なる無理な要求、隣国と長く続く紛争に頭を悩ませ、肉体的にも精神的にも疲弊していた。その父は、いまだにベッドから起き上がれない状況が続いている。

「お嬢様っ? どちらへ行かれるのですかっ」

 廊下へ出ると、マリスは押し殺した声で叫んだ。ティナは細く白い人差し指を口もとにあてる。それは幼少期から使っている、黙って見ぬふりをして、という合図だった。強情なティナの性分を知っているマリスは、それ以上何も言わず、ただ心配そうに口をつぐむ。ティナは彼女を残して廊下を進んだ。
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