敵将に拾われた声なき令嬢、異国の屋敷で静かに愛されていく
第四話



 馬車はひたすら雪原を走っていた。

 窓の外には、白い世界が続いている。けれど、その静かな光景とは裏腹に、帰宅を急ぐ馬のひずめと車輪のきしむ音だけが、長くせわしなく続いていた。

 厚手の毛布にくるまれて、ティナはラスの方へ倒れ込むようにして体を預けていた。不思議と不安はなかった。あのとき──雪の中で倒れていたとき、彼の助けがなければ、今ごろどうなっていたか。

 ラスは雪の中、ティナを抱き上げるとすぐに関所へ戻った。関所に詰めていた兵士たちに、「この娘は俺を訪ねてきた。屋敷へ戻るが、他言無用」とだけ言い放つと、ティナとともに馬車へ乗り込んだ。

 見送る兵士たちは一様に、にやにやと笑っていた。もしかしたら、自身が恥ずべきことをしたのかもしれないと不安がり、彼らがなぜそのように下卑た笑みを浮かべるのか察することができないティナを見て、ラスは苦笑いした。

 ティナは彼らの態度がどうにも気になったが、寒さで凍える体に力が入らず、何も言わずにただ静かに肩を差し出してくれるラスに身を寄せるしかなかった。

 長旅に備えて整えられた馬車の中は暖かく、かすかな革の匂いに混じって、けものが縄張りを主張するかのような勇ましい香りがした。それがラスの体臭だと気づいたティナは、慣れない雄々しい香りに困惑し、もぞもぞと体を動かす。すると、ラスがそっと姿勢を整えた。

「寒くないか?」

 そう問いかける声音は、まるで何かを壊すのを恐れて選び抜かれたもののように、ひどく慎重だった。公爵令嬢に敬意を──いや、モンレヴァルの娘に対する敬意を見せてくれたのだろう。

 ティナはかすかに首を振ると、腕に抱いていた木製ボードを彼に見せた。『助けて』という文字はかすれて読みにくくなってはいたが、ラスはそれを見るなり、気むずかしげに眉をひそめる。

「ゲレール侯から、カリスト公の娘は声を失っていると聞いていた。和平交渉での発言には正直驚いていたんだが……やはり」

 ティナが袖でボードをこすって文字を消し、『帰れない』と新しく書き記すと、ラスはその手にそっと手のひらをかざす。

「……おいおい、話は聞こう。俺の屋敷へ連れていくが、いいか?」

 ティナはほんの少し口もとをゆるめてうなずくと、感謝の気持ちを込めて純粋な目でラスを見つめた。

 声を出せないのがもどかしかった。命の恩人です。ありがとう。ご迷惑ではないですか? ……伝えたいことも聞きたいこともたくさんあった。しかし、筆談で書ききれない思いは胸の奥に残ってしまう。だから、ラスには伝わらないのか、彼は何も言わずに目をそらしてしまった。

(やっぱり……、ご迷惑よね……)

 ティナは小さなため息をつくと、馬車の外へと目を向けた。

 先ほどまで降っていた雪はいつの間にか、やんでいる。雪で覆い尽くされていた光景がやわらぎ、街道を覆うように高々と伸びる針葉樹からは深い緑が見え隠れし、その先に明かりを灯す町が見えてきた。

「今夜はあの町で泊まろう。王都ミュルセールまでは丸一日かかる。もう少し辛抱してくれ」

 ラスは苦渋に満ちた声音を吐き出したが、ティナは素直にうなずいた。何日かかってもかまわない。無事に生きられる場所がある。そう思うだけで心強かった。

 町に到着すると、ラスはすぐに一人で馬車を降りていき、宿が借りられるように手配してくれた。彼は小さな町でもその名を知られているようだ。慣れた様子で宿の主人が疲れ切った馬を預かり、勝手知ったるとはこのことか──御者のふたりも足取り軽く宿の中へ入っていく。

 ティナはフードを深くかぶり直すと、ラスの手を借りて馬車を降りた。すでに深い藍色の夜の帳が降り、足もとの雪も凍っている。予想外の出発で、ラスたちだけでなく、馬たちも過酷な旅を強いられたのではないか。今さら、そこに思いが至って、ティナは恥ずかしくなった。

 ティナはずっと胸にあった問いを、思いきって文字にした。おずおずとラスのマントをつまみ、『関所にいなくてよかったのですか?』と書いたボードをそっと差し出す。不思議そうに振り返った彼は、ほんの少し険しかった表情をやんわりとやわらげる。

「調印式の心配をしてくれているようだが、あれは無事に済み、ゲレール侯は騎士団を引き連れて先に帰ったんだ。俺だけ用があって関所にとどまっていた。少しだけ出発がはやくなったが、何も問題はない」
『ご用事?』
「ああ、目当てのものは手に入れた。実に幸運でね……。いや、こんな寒空のもとで話すことではないな」

 ラスは上機嫌に何かを話そうとしたが、ティナに聞かせるものでもないと判断したのか、そう言葉を濁すと、彼女を連れて宿へと入った。

 宿の主人は、騎士団長のラスが連れてきた娘に興味津々だった。地味な外套でも隠しきれない気品に気づき、どれほど身分の高い令嬢なのかと好奇心を見せていたが、ラスが詮索をやめさせるように、「同じ部屋で頼む」とぶっきら棒に言うと、したり顔で去っていった。

 ティナは宿の中でも、もっとも良い部屋に案内された。しかし、仕切りはおろか、ベッドも一つしかない。ラスは確か、同じ部屋と言ったはずだ。もっと何部屋もあると思っていただけに戸惑っていると、彼は木製のうつわを片手に部屋へ戻ってきた。

「今夜はスープぐらいしか用意できないそうだ。明日の朝、早々に立てば、日が暮れる前には王都へ着くだろう。俺の屋敷で馳走を振る舞おう」

 差し出されるうつわを反射的に受け取ると、ラスはすぐにでも部屋を出ていこうとする。あわててマントをつかむと、彼は「ああ」とうしろ頭をなでながらつぶやく。

「俺は馬車で寝るよ。こういう旅は慣れている。この宿は何度も利用していて、主人の扱いはわかっている。気をつかって部屋をのぞいたりはしないだろう」
『ごめんなさい』
「今さらだ。早朝、迎えにくる。ゆっくり休むといい」

 ラスは何も気にしてないとばかりに快活な笑い声をあげると、『おやすみなさい』とティナがボードに書き記しているうちに部屋を出ていってしまった。
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