敵将に拾われた声なき令嬢、異国の屋敷で静かに愛されていく
第六話
***
「ゲレール侯は過去に宰相を輩出したことのある名門家の出でね、民の声を聞くために、城下町に屋敷をかまえているんだ。陛下から聖ルヴェラン騎士団を引き継ぎ、治安維持のためには尽力を惜しまない。民からの信頼も厚く、街の秩序を保ってきた人格者だよ」
ラスは中央広場に向かいながら、城下町を取り仕切るゲレール・モランシエ侯爵の話を熱心にしていた。
そのまなざしには、憧れと誇りを含む敬愛が浮かんでいるようで、誰かをそのような思いで見つめたことがなかったティナは、珍しさと羨ましさを覚えていた。
「だからこそ、何かあれば、必ずゲレール侯の耳に届く。今のところ、街は平穏に見えるが、完全に安心できるとは思っていない。セレバルからそれらしい者の出入りは確認されていないが、情報が届いていないだけ……という可能性もある」
それらしいというのは、追手のことだ。ラスが心配するぐらいなのだから、やはり、セレバルのヴェルナード国王は行方知れずのティナを探しているのだろう。
「カリスト邸はこのところ、ひっそりとしているそうだ。時折、ルシアン・ラビエールを乗せた馬車が出入りする以外は」
ティナはハッとしてラスを見上げた。動揺する薄紫の瞳を見つけて、彼は神妙にうなずく。
「騎士団の隊員にカリスト邸を見張らせている。ルシアンというあの男が訪れている以上、カリスト公は無事だろう。あちらの心配もあるだろうが、今はセレバルで穏やかに暮らすことを優先しよう」
ティナは早速、花柄の小さなバッグから万年筆を取り出し、手のひらの上に乗せた羊皮紙に文字を書き込む。
『お父さまのご無事を祈ります』
セレスのことも心配だったが、彼女ならうまくやってのけるだろう。カタリーナだって、セレスに何かあれば黙ってはいないはずだ。レオニスの体調は気になったが、公爵の身に何かあれば、必ず王都で騒ぎになる。それがないなら、父は無事でいるということだ。
ラスは羊皮紙をのぞき込み、ティナが急いで書いた文字をするりとなでた。
「どうしたらいいのだろうな。優秀な医師を知ってはいる。ティナが望むなら診てもらうこともできるが」
ティナはすぐさま首を横に振った。
小さなころは王都にある徳の高い医師のもとへ定期的に通っていた。しかし、医師から、『何も悪いところはない。話す気がないだけだ』と突き放され、カタリーナを激怒させたときから行かなくなった。
『おまえは本当に、怠慢な娘だ。由緒正しい公爵家の恥でしかないっ』
そんなふうに、カタリーナから叱咤された日がよみがえる。口答えも沈黙も許されないと、幼なごころは傷ついた。
「……そうか。ティナが望まないなら無理強いはしない。いつか話せるようになると信じて待とう」
『ごめんなさい』
そう書いた羊皮紙を手の中に丸め込む。ラスは優しいが、失望がありありとわかる。それは、レオニスと同じ。いつかラスも、関心を持ってくれなくなるのだろう。
うつむいていると、ラスはティナの手を取り、押し潰された羊皮紙を伸ばす。
「謝るのは、俺の方だ」
なぜ? とティナが首をかしげると、彼はなんとも言えない表情を浮かべ、つぶやくように言う。
「あなたの声は、とても美しいものだった。だからその……、もう一度聞きたいと願うのは……俺のわがままだ」
ティナがじっと見つめると、ラスはサッと目もとを赤くし、わざとらしく咳払いする。
「……さて、そろそろ店に入ろうか。何か見たいものはあるか?」
目をそらしたラスの奥に見覚えのあるタペストリーが見えた。以前と変わらず、薄暗い店内にただひっそりと吊り下がっている。
「あの質屋に行きたいのか?」
知らず知らずのうちに、まじろぎもせずに見ていたようだ。ラスがあからさまに眉をひそめて尋ねてくる。マギーは行ってはいけない店だと言っていた。悪評判のある質屋を、彼が知らないはずはない。
ティナはすぐに首を横に振ったが、あの指輪のことが気になって、ふたたび、質屋へと目を移す。すると、ラスは大げさなため息をつく。
「気になるなら連れていこう。一人では行かせたくない店だが、俺が一緒なら大丈夫だろう」
『怖くないですか?』
ちょんちょんとラスの袖を引っ張って訴えると、彼はちょっと息を漏らして笑う。
「バルドは俺に頭があがらない。ティナを怖がらせるような真似はしないさ」
『バルド?』
「ああ、店主の名だ。昔からの知り合いでね。いろんな情報を握ってるから、うまく扱えば役に立つやつなんだよ」
「ゲレール侯は過去に宰相を輩出したことのある名門家の出でね、民の声を聞くために、城下町に屋敷をかまえているんだ。陛下から聖ルヴェラン騎士団を引き継ぎ、治安維持のためには尽力を惜しまない。民からの信頼も厚く、街の秩序を保ってきた人格者だよ」
ラスは中央広場に向かいながら、城下町を取り仕切るゲレール・モランシエ侯爵の話を熱心にしていた。
そのまなざしには、憧れと誇りを含む敬愛が浮かんでいるようで、誰かをそのような思いで見つめたことがなかったティナは、珍しさと羨ましさを覚えていた。
「だからこそ、何かあれば、必ずゲレール侯の耳に届く。今のところ、街は平穏に見えるが、完全に安心できるとは思っていない。セレバルからそれらしい者の出入りは確認されていないが、情報が届いていないだけ……という可能性もある」
それらしいというのは、追手のことだ。ラスが心配するぐらいなのだから、やはり、セレバルのヴェルナード国王は行方知れずのティナを探しているのだろう。
「カリスト邸はこのところ、ひっそりとしているそうだ。時折、ルシアン・ラビエールを乗せた馬車が出入りする以外は」
ティナはハッとしてラスを見上げた。動揺する薄紫の瞳を見つけて、彼は神妙にうなずく。
「騎士団の隊員にカリスト邸を見張らせている。ルシアンというあの男が訪れている以上、カリスト公は無事だろう。あちらの心配もあるだろうが、今はセレバルで穏やかに暮らすことを優先しよう」
ティナは早速、花柄の小さなバッグから万年筆を取り出し、手のひらの上に乗せた羊皮紙に文字を書き込む。
『お父さまのご無事を祈ります』
セレスのことも心配だったが、彼女ならうまくやってのけるだろう。カタリーナだって、セレスに何かあれば黙ってはいないはずだ。レオニスの体調は気になったが、公爵の身に何かあれば、必ず王都で騒ぎになる。それがないなら、父は無事でいるということだ。
ラスは羊皮紙をのぞき込み、ティナが急いで書いた文字をするりとなでた。
「どうしたらいいのだろうな。優秀な医師を知ってはいる。ティナが望むなら診てもらうこともできるが」
ティナはすぐさま首を横に振った。
小さなころは王都にある徳の高い医師のもとへ定期的に通っていた。しかし、医師から、『何も悪いところはない。話す気がないだけだ』と突き放され、カタリーナを激怒させたときから行かなくなった。
『おまえは本当に、怠慢な娘だ。由緒正しい公爵家の恥でしかないっ』
そんなふうに、カタリーナから叱咤された日がよみがえる。口答えも沈黙も許されないと、幼なごころは傷ついた。
「……そうか。ティナが望まないなら無理強いはしない。いつか話せるようになると信じて待とう」
『ごめんなさい』
そう書いた羊皮紙を手の中に丸め込む。ラスは優しいが、失望がありありとわかる。それは、レオニスと同じ。いつかラスも、関心を持ってくれなくなるのだろう。
うつむいていると、ラスはティナの手を取り、押し潰された羊皮紙を伸ばす。
「謝るのは、俺の方だ」
なぜ? とティナが首をかしげると、彼はなんとも言えない表情を浮かべ、つぶやくように言う。
「あなたの声は、とても美しいものだった。だからその……、もう一度聞きたいと願うのは……俺のわがままだ」
ティナがじっと見つめると、ラスはサッと目もとを赤くし、わざとらしく咳払いする。
「……さて、そろそろ店に入ろうか。何か見たいものはあるか?」
目をそらしたラスの奥に見覚えのあるタペストリーが見えた。以前と変わらず、薄暗い店内にただひっそりと吊り下がっている。
「あの質屋に行きたいのか?」
知らず知らずのうちに、まじろぎもせずに見ていたようだ。ラスがあからさまに眉をひそめて尋ねてくる。マギーは行ってはいけない店だと言っていた。悪評判のある質屋を、彼が知らないはずはない。
ティナはすぐに首を横に振ったが、あの指輪のことが気になって、ふたたび、質屋へと目を移す。すると、ラスは大げさなため息をつく。
「気になるなら連れていこう。一人では行かせたくない店だが、俺が一緒なら大丈夫だろう」
『怖くないですか?』
ちょんちょんとラスの袖を引っ張って訴えると、彼はちょっと息を漏らして笑う。
「バルドは俺に頭があがらない。ティナを怖がらせるような真似はしないさ」
『バルド?』
「ああ、店主の名だ。昔からの知り合いでね。いろんな情報を握ってるから、うまく扱えば役に立つやつなんだよ」