敵将に拾われた声なき令嬢、異国の屋敷で静かに愛されていく
第九話
***
孤児院は、『アリアーヌの家』と呼ばれていた。およそ八十年前、孤児院を創設した王妃アリアーヌは多くの孤児を救った。彼女の名にちなんでつけられたこの場所は、今でも貧しい子どもたちを分け隔てなく受け入れている。
ルヴェランの子どもに限らず、他国の紛争孤児や、親を病で亡くした子など、さまざまな事情を抱えた子どもたちが集まっているが、それでも彼らは、毎日を明るく過ごしている。
とりわけ、子どもたちはティナの来訪を喜んだ。すでに、ティナはアリアーヌの家を何度も訪れていた。彼らはティナが読み聞かせる絵本をそれはそれは心待ちにしているのだった。
「ティナさんがいらっしゃると、何もないこの場所が華やぎますよ」
そう笑顔で話すのは、アリアーヌの家で教師をするマギーの兄、ジルヴァン・ラセルタだ。柔らかな茶色のくせ毛の青年で、真面目でぼくとつとした人柄。
その落ち着いた様子が子どもたちを安心させるようで、彼の後ろにはいつも、パン屋で出会ったナナがまとわりつき、ジルヴァンの手伝いをしようとレオが本を抱えて付き従っている。レオもナナも、出会ったときよりも身綺麗になり、ずいぶん体つきも健康的になっていた。
「何もないだなんてことは。ジルヴァンさんのお気づかいあってこそです」
ティナはジルヴァンへのあいさつを済ませると、レオの抱える本へと目を移す。
「レオさん、それは何の絵本ですか?」
「ナナが読んでほしいって言うから。お願いできますか?」
「いいですよ」
レオが差し出す絵本を受け取りながらティナがあっさり受け入れると、ナナがニカッと歯を見せて笑う。
「悲しみと赦しの王子……ですか。ずいぶん、古い絵本があるんですね」
ふたりの王子が相対する表紙を眺めながらつぶやくと、ジルヴァンが感心したようにうなずく。
「やはり、ティナさんはご存知でしたか」
「ええ、もちろんです。セルヴァランが、セレバルとルヴェランに分かれてしまったころの逸話ですよね? 両国に共通して語り継がれる唯一の絵本と言ってもいいのではないでしょうか?」
「その通りです。兄弟の絆の大切さを説いた本ですね。アリアーヌの家では、たびたび、子どもたちに読んで聞かせるのですが、ナナさんはまだ……」
ジルヴァンが話し始めると、しびれを切らしたように、ナナがティナのドレスのすそをつかんで引っ張った。
「あっちで、よむのっ」
ティナとジルヴァンは顔を見合わせ、そっと笑む。ティナはナナと手をつないで、中央にある広場へと向かう。そこではいつも、子どもたちが本を読んだり駆けっこをしたり、縄遊びをしたりと、自由に遊び回っている。
ティナが石畳みに置かれた木椅子に腰かけると、走り回っていた子どもたちが次々集まってくる。
今日は何を読んでくれるのだろう? 床に座り込み、キラキラと目を輝かせる子どもたちの前で、ティナはそっと絵本を開いて語り始める。透き通った静かな声は、柔らかな光の射す広場へと、やさしく響く。
「むかしむかし、みなみの国の農村に、ふたりの男の子がいました。ひとりは金の髪を持ち、もうひとりは黒い髪をしていました──」
子どもたちは静かに聞き入っていた。レオは真剣な目をし、ナナは楽しそうに少し体を揺らして。
「ふたりはとても仲の良い兄弟で、どこへ行くにも一緒でした。けれどある日、争いがふたりを引き裂きます。実は……、とあるメダルを持つふたりの男の子は、王様の子どもだったのです」
後継のいない国王。国王にはふたりの隠し子がいる。家臣たちが騒ぎ立て、権力争いの場にふたりを引きずり出す。
ティナはこの話に登場するふたりを思うたびに、胸がぎゅっとつかまれるような痛みを覚えた。
「そして……、どちらの王子が王様になるのか──国中が、争いと不安でいっぱいになってしまいました」
「それでどうなったの?」
ひとりの男の子が、興味津々に声をあげた。
「長い長い争いのあと、金の髪の王子は、自らを捨てた王様をとても恨みました。そして、王様を捕え、自らが新しい王様になったのです。でも、心の優しい黒い髪の王子は、王様を赦して、たったひとりで遠い遠い国へと旅立ちました」
ティナはそこで少し言葉を区切った。
なぜか、少年時代のラスの姿が思い浮かんだ。父を頼り、王宮へ出向いたラスは、父に存在を認めてもらうこともできずに、ルヴェランへと渡った。この本の主人公、黒い髪の王子と同じく、どれほどの無念を抱えていただろう。
「はやくっ、よんで」
ナナに急かされ、ティナはちょっとほほえむと、ふたたび口を開く。
「……黒い髪の王子は、たったひとりで遠い国へと旅立ちました。誰も知らない、静かな異国へ──彼は剣を手にして、人々を守り、正しく生きたのです」
年長の子は息を飲み、幼い子たちはぽかんと口を開けたまま、物語の続きに耳を傾けている。
「黒い髪の王子は、自らが王子であることを名乗りませんでした。ただ静かに、人々の安寧を願い、その土地を守り続けたのです。──ある日、魔物に襲われた村を救った王子の前に立って、村の子どもが言いました。『どうして、あなたはそんなに強いの? どうして名前を隠すの?』と」
ティナは最後のページをそっとめくる。
そこには、月明かりの下でひとり、剣を背負った男の背中が描かれている。力強いのに、どこか孤独を感じさせる背中──。彼が本当に願っていたものは、兄と過ごす幸せな日々だったのではないだろうか。
「黒い髪の王子は笑って、こう答えました。『名乗る名はもうない。ただこうして、おまえたちが笑っていられるなら、それでいい』と。黒い髪の王子は村の人々に感謝され、やがて、神の使いと崇められ──その地の新しい王となったのです」
本を読み終えると、子どもたちは静まり返っていた。
国王である父が、ふたりの我が子を捨て、仲良く暮らす兄弟を引き裂いたことで招いた悲劇。ラスは『悲しみと赦しの王子』を知っているのだろう。だからこそ彼は、レオとナナが離れて暮らすのはよくないと言ったのではないだろうか。
「ティナさん、一つ聞いていいですか?」
礼儀正しく手を挙げたのは、誰よりも真剣に耳を傾けていたレオだった。
「はい、いいですよ。何が気になりましたか?」
「最初のところ……ふたりの王子は、どうして王様に捨てられた王子だってわかったの?」
「その答えは、簡単です。今でも、貴族たちの間では子どもが生まれると、紋章の刻まれたメダルを我が子の証として授ける習わしが残っているんですよ。ですから、この本のふたりの王子も、王様の子どもを示すメダルを持っていたんです」
ティナはパラパラと本をめくり、それを記すページを開いてみせる。ふたりの王子がお互いの持つメダルを見せ合っている挿し絵に、子どもたちは大きくうなずいた。
「じゃあ、ティナさんもメダル持ってるの?」
子どもの無邪気な質問に、ティナは困り顔をこらえて笑顔を見せる。
「私は……持ってないの」
母から譲り受けたサン・アルジャン金貨──あれは……。
「なーんだ。みんなじゃないんだね」
がっかりする子どもたちをほほえみながら見守るティナは、入り口に現れた男に気づいて立ち上がる。ティナの視線に気づいた子どもたちも、次々に顔を上げる。
「ゲレール侯爵様だ!」
孤児院は、『アリアーヌの家』と呼ばれていた。およそ八十年前、孤児院を創設した王妃アリアーヌは多くの孤児を救った。彼女の名にちなんでつけられたこの場所は、今でも貧しい子どもたちを分け隔てなく受け入れている。
ルヴェランの子どもに限らず、他国の紛争孤児や、親を病で亡くした子など、さまざまな事情を抱えた子どもたちが集まっているが、それでも彼らは、毎日を明るく過ごしている。
とりわけ、子どもたちはティナの来訪を喜んだ。すでに、ティナはアリアーヌの家を何度も訪れていた。彼らはティナが読み聞かせる絵本をそれはそれは心待ちにしているのだった。
「ティナさんがいらっしゃると、何もないこの場所が華やぎますよ」
そう笑顔で話すのは、アリアーヌの家で教師をするマギーの兄、ジルヴァン・ラセルタだ。柔らかな茶色のくせ毛の青年で、真面目でぼくとつとした人柄。
その落ち着いた様子が子どもたちを安心させるようで、彼の後ろにはいつも、パン屋で出会ったナナがまとわりつき、ジルヴァンの手伝いをしようとレオが本を抱えて付き従っている。レオもナナも、出会ったときよりも身綺麗になり、ずいぶん体つきも健康的になっていた。
「何もないだなんてことは。ジルヴァンさんのお気づかいあってこそです」
ティナはジルヴァンへのあいさつを済ませると、レオの抱える本へと目を移す。
「レオさん、それは何の絵本ですか?」
「ナナが読んでほしいって言うから。お願いできますか?」
「いいですよ」
レオが差し出す絵本を受け取りながらティナがあっさり受け入れると、ナナがニカッと歯を見せて笑う。
「悲しみと赦しの王子……ですか。ずいぶん、古い絵本があるんですね」
ふたりの王子が相対する表紙を眺めながらつぶやくと、ジルヴァンが感心したようにうなずく。
「やはり、ティナさんはご存知でしたか」
「ええ、もちろんです。セルヴァランが、セレバルとルヴェランに分かれてしまったころの逸話ですよね? 両国に共通して語り継がれる唯一の絵本と言ってもいいのではないでしょうか?」
「その通りです。兄弟の絆の大切さを説いた本ですね。アリアーヌの家では、たびたび、子どもたちに読んで聞かせるのですが、ナナさんはまだ……」
ジルヴァンが話し始めると、しびれを切らしたように、ナナがティナのドレスのすそをつかんで引っ張った。
「あっちで、よむのっ」
ティナとジルヴァンは顔を見合わせ、そっと笑む。ティナはナナと手をつないで、中央にある広場へと向かう。そこではいつも、子どもたちが本を読んだり駆けっこをしたり、縄遊びをしたりと、自由に遊び回っている。
ティナが石畳みに置かれた木椅子に腰かけると、走り回っていた子どもたちが次々集まってくる。
今日は何を読んでくれるのだろう? 床に座り込み、キラキラと目を輝かせる子どもたちの前で、ティナはそっと絵本を開いて語り始める。透き通った静かな声は、柔らかな光の射す広場へと、やさしく響く。
「むかしむかし、みなみの国の農村に、ふたりの男の子がいました。ひとりは金の髪を持ち、もうひとりは黒い髪をしていました──」
子どもたちは静かに聞き入っていた。レオは真剣な目をし、ナナは楽しそうに少し体を揺らして。
「ふたりはとても仲の良い兄弟で、どこへ行くにも一緒でした。けれどある日、争いがふたりを引き裂きます。実は……、とあるメダルを持つふたりの男の子は、王様の子どもだったのです」
後継のいない国王。国王にはふたりの隠し子がいる。家臣たちが騒ぎ立て、権力争いの場にふたりを引きずり出す。
ティナはこの話に登場するふたりを思うたびに、胸がぎゅっとつかまれるような痛みを覚えた。
「そして……、どちらの王子が王様になるのか──国中が、争いと不安でいっぱいになってしまいました」
「それでどうなったの?」
ひとりの男の子が、興味津々に声をあげた。
「長い長い争いのあと、金の髪の王子は、自らを捨てた王様をとても恨みました。そして、王様を捕え、自らが新しい王様になったのです。でも、心の優しい黒い髪の王子は、王様を赦して、たったひとりで遠い遠い国へと旅立ちました」
ティナはそこで少し言葉を区切った。
なぜか、少年時代のラスの姿が思い浮かんだ。父を頼り、王宮へ出向いたラスは、父に存在を認めてもらうこともできずに、ルヴェランへと渡った。この本の主人公、黒い髪の王子と同じく、どれほどの無念を抱えていただろう。
「はやくっ、よんで」
ナナに急かされ、ティナはちょっとほほえむと、ふたたび口を開く。
「……黒い髪の王子は、たったひとりで遠い国へと旅立ちました。誰も知らない、静かな異国へ──彼は剣を手にして、人々を守り、正しく生きたのです」
年長の子は息を飲み、幼い子たちはぽかんと口を開けたまま、物語の続きに耳を傾けている。
「黒い髪の王子は、自らが王子であることを名乗りませんでした。ただ静かに、人々の安寧を願い、その土地を守り続けたのです。──ある日、魔物に襲われた村を救った王子の前に立って、村の子どもが言いました。『どうして、あなたはそんなに強いの? どうして名前を隠すの?』と」
ティナは最後のページをそっとめくる。
そこには、月明かりの下でひとり、剣を背負った男の背中が描かれている。力強いのに、どこか孤独を感じさせる背中──。彼が本当に願っていたものは、兄と過ごす幸せな日々だったのではないだろうか。
「黒い髪の王子は笑って、こう答えました。『名乗る名はもうない。ただこうして、おまえたちが笑っていられるなら、それでいい』と。黒い髪の王子は村の人々に感謝され、やがて、神の使いと崇められ──その地の新しい王となったのです」
本を読み終えると、子どもたちは静まり返っていた。
国王である父が、ふたりの我が子を捨て、仲良く暮らす兄弟を引き裂いたことで招いた悲劇。ラスは『悲しみと赦しの王子』を知っているのだろう。だからこそ彼は、レオとナナが離れて暮らすのはよくないと言ったのではないだろうか。
「ティナさん、一つ聞いていいですか?」
礼儀正しく手を挙げたのは、誰よりも真剣に耳を傾けていたレオだった。
「はい、いいですよ。何が気になりましたか?」
「最初のところ……ふたりの王子は、どうして王様に捨てられた王子だってわかったの?」
「その答えは、簡単です。今でも、貴族たちの間では子どもが生まれると、紋章の刻まれたメダルを我が子の証として授ける習わしが残っているんですよ。ですから、この本のふたりの王子も、王様の子どもを示すメダルを持っていたんです」
ティナはパラパラと本をめくり、それを記すページを開いてみせる。ふたりの王子がお互いの持つメダルを見せ合っている挿し絵に、子どもたちは大きくうなずいた。
「じゃあ、ティナさんもメダル持ってるの?」
子どもの無邪気な質問に、ティナは困り顔をこらえて笑顔を見せる。
「私は……持ってないの」
母から譲り受けたサン・アルジャン金貨──あれは……。
「なーんだ。みんなじゃないんだね」
がっかりする子どもたちをほほえみながら見守るティナは、入り口に現れた男に気づいて立ち上がる。ティナの視線に気づいた子どもたちも、次々に顔を上げる。
「ゲレール侯爵様だ!」