敵将に拾われた声なき令嬢、異国の屋敷で静かに愛されていく
第二話
 淡々とお互いの主張を語る中、ラスの発言が空気を変えた。停戦合意の条件として、「スレイからの無条件撤退は譲れない」と、ラスが口にした瞬間、隣に座るルシアンの体に緊張が走り、ものものしい気配が漂ったのだ。それは周りにいるほかの使節団員にもすぐに伝わった。場内がざわめく。

 無主地をどうするか。それは避けて通れない話だとわかっていたはずだ。ルヴェランの主張はなんら、意外なものではない。それなのに、ルシアンが嫌悪感を見せただけで、これほど場が乱れるとは。

 ティナは緊張のあまり、手元の羽ペンを握りしめた。

 セレバルにとってもっとも重要なのは、交渉内容そのものではないのかもしれない。それよりも、ルシアン──いや、彼に直接指示を与えている国王の感情なのではないか。使節団員は何より、王命に従うルシアンの機嫌を損なうことを恐れている。

「その件については、すでに前回もお伝えしたはずです」

 ルシアンの声が険しくなる。

「スレイは、かつてセルヴァラン王家に忠誠を誓ったヴェルナード家の領地でした。セルヴァランの時代に、正式な統治権があいまいになったとて、それは一時の混乱にすぎません。我らセレバルが、その地を治めるのは当然のことです」
「それだけが理由ならば、ルヴェランの領土であるスレイ以北への進軍に説明がつかない」

 ゲレールが指摘すると、ルシアンはわざとらしく首を振ってため息をつく。

「スレイ以北も、ヴェルナード家の領土であったのです。ヴェルナード家は多くを失ってきた。その悔しさ、貴殿らにはわからないでしょう」

 ラスとゲレールが顔を見合わせ、首をわずかに左右に振り合う。話にならないと、あきれているようでもある。

 そして、ゲレールが合図を送るようにうなずくと、ラスが低く落ち着いた声で話し始める。

「しかし、和平を結ぶ以上、再び争いが起きない保証が必要です。我が国は、係争地であるスレイ北部に駐屯地を設けることを要求します。そこに兵を置き、治安維持に責任を持つ。これは民の安寧のためでもあります」

 彼の口調は感情を抑えているにもかかわらず、絶対に譲れない条件だと強く発言する。真に民を思って提言しているのだと感じさせる、そんな迫力があった。

 当時のセルヴァランを知る者はもういない。ヴェルナード家がスレイを統治していた記録も曖昧で、ルヴェラン側としては単なるセレバル国王の身勝手な言い分としか受け止めていない。

 ティナとしても、セレバルの言い分は詭弁と取られても仕方ないと感じている。しかし、悪政に反旗をひるがえすセレバル国民はおらず、今や国は、欲しいものは必ず手にしないと気が済まないヴェルナード国王の勝手わがままに振り回され、ルヴェランの主張を簡単には受け入れられない状況にある。

「そのような要求、到底飲めるものではない!」

 ルシアンが興奮した様子で声を荒らげた。

「それは和平ではなく、侵略の一歩だ! 領土を我がものにし、セレバルの誇りを土足で踏みにじるつもりか、貴殿らは!」

 立ち上がり、叫んだルシアンの指先は、ラスをまっすぐに指していた。ヴェルナード国王の執念をひとりで背負っているかのような、根深い恨みに満ちた目──そんな悪意を向けられてもなお、ラスは無言で、冷静に怒りを受け止めている。

 誰もが交渉の行方を、固唾を飲んで見守る。話せないといった方が正しいだろうか。口火を切ったものは、ルシアンの怒りを買う。そう信じているかのように誰もが口を閉ざす中、ティナは視線を落とし、手の中の羊皮紙を見つめる。

(……このままでは、交渉が決裂してしまうわ)

 すでにいくつか、意見を書きとめている。自身の考えがどこまで受け入れられるかは想像すらできない。

 しかし、期待されないとわかっていても、何かできると信じてこの場へやってきた。ここで黙っていたら、モンレヴァルの末裔としての役割さえ果たせない。

 ルシアンとラスが静かににらみ合っている。その強張る空気に焦りを覚えながら、ティナは後ろに控える青年を振り返った。

 彼は書記官だ。すぐさま、羊皮紙に綴ったメモを差し出す。彼は目で訴えるティナに気づき、身を乗り出してメモに目を通す。

(伝えてくれるかしら……)

 わずかに眉をぴくりと動かす書記官の態度に不安は増したが、すぐに彼はルシアンの奥に腰掛ける近衛隊長のローベルト・ハインへメモを運んでくれた。

 ハインはメモから目を上げるなり、ティナを見つめた。その表情からは、真意が受け取れない。

 こざかしい真似を。公爵令嬢の出る幕ではない。そう思われているのではないか。それとも……、ハインですら、ルシアンに意見はできないのだろうか。さまざまな憶測は止まらず、焦りはピークに達し、ティナの息はあがった。

 しかし、誰かが動かなければ、交渉は決裂してしまうだろう。次の和平交渉はいつになるだろうか。それまでに、どれほどの血が流れるというのだろうか。

「宰相補佐殿、ちょっと……」

 ルシアンが椅子に座り直したとき、ふっと緊張が緩んだ。その隙を見て、ハインが話しかける。

「ん? ……なんです? そのメモは」

 ティナのメモを見せるハインに、ルシアンは体を傾ける。ふたりはティナを見ることなく、何やらひそひそと話し合う。ラスもまた、ゲレールとひたいを付き合わせている。

 いったい、話し合いはどうなってしまうのだろう。何もできないもどかしい時間に気ばかりが急く。

「よろしいですか? 発言の許可を願います」

 静かに手を挙げたのはラスだった。そのとき、ルシアンがメモを受け取る。

「いえ、先にこちらから発言してもよろしいです?」

 ルシアンが穏やかな口調で申し出る。先ほどまでの怒りは飲み込んだようだ。

(わかってもらえたのかしら)

 不安ではあったが、あのメモの通りにルヴェランに伝えてくれれば、まだ交渉の余地は残されるのではないか。そう期待してルシアンを見上げた瞬間、彼は冷たい横目でティナをにらみつけると、青筋の立つ手の中でメモを握りつぶした。
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