敵将に拾われた声なき令嬢、異国の屋敷で静かに愛されていく
第十二話
***
ティナは久しぶりに羽ペンを手に取っていた。長雨が続き、ラスは街の周囲を流れる川の警戒にあたっていて、このところは毎日、夜遅くに帰宅していた。もう何日、会っていないだろう。
_______
親愛なるラスフォード様へ
毎日のおつとめ、大変なご苦労かと存じます。
この長雨の季節、屋敷でお過ごしになられるのではと楽しみにしておりましたが……、お忙しい日々が続き、少しさみしく感じております。
ところで、本日、妹のセレスから私宛に手紙が届きました。お相手のことは、はっきりとは書いてありませんでしたが、結婚が正式に決まったようです。結婚式にはぜひ、参加してほしい。そのような内容でした。
私はセレバルの地を二度と踏まないとの気持ちでおりますが、ふたたび、ラスフォード様にご迷惑をおかけするのではと案じております。
……いいえ、このような湿ったお話をしたいのではありません。ラスフォード様に少しでもお会いできないものかと、思いを巡らしているんですよ。
せめて、お手紙を書いている私と、お手紙を読んでいるラスフォード様が今夜、会えますように──
ティナ
_______
マギーに手紙を託した翌日、ラスは街のパトロールを終えると、早々に屋敷へ戻ってきた。
「ゲレール侯から詳しい話を聞いてきた。やはり、セレスタイン嬢の結婚相手はユリウス王太子のようだ」
部屋へ入ってくるなり、ラスはそう告げると、マギーの淹れた紅茶を楽しむティナの目の前に腰をおろした。
「わざわざ聞いてくださったの? 婚約が正式に発表されるのはもう少し先になるとのことでしたので、そうではないかと思っていましたが……」
久しぶりに顔を合わせた喜びを分かち合うひまもなく、ティナはほんの少しがっかりしながらそう答えた。
セレスの結婚に、特に大きな感慨はなかった。セレスは王太子妃になるのだと子どものころから聞かされていたし、むしろ、婚約が決まらなかったと聞かされた方が何倍も驚いていただろう。
「ゲレール侯に情報をもたらすのは、セレバルに滞在させている騎士団員だ。間違いないだろう。あちらも今は長雨の季節。雨があがるころに結婚式が執り行われるだろうな」
「……盛大で華やかなものになるでしょうね」
「浮かない顔をしているが、何か心配でもあるのか?」
そう尋ねるラスの方が晴れない表情をしている。
もしかしたら、王太子妃になれなかったことを、いまだに気づかっているのかもしれない。ティナはそう気づいて、口もとに笑みを浮かべて首を振る。
「セレスの結婚はうれしいんですよ。あの子にとっても、カリスト邸は少々、居心地が良くなかったでしょうから」
「なぜだ?」
ラスは首をわずかに傾けた。
「私とセレスは父と母が異なりますから……」
とはいえ、何不自由ない生活を与えてくれる公爵家で困りごとなどあるはずがない。不遇な環境で育った彼には、姉妹の立場を想像しがたいのだろう。
「私たちは小さなころ、仲の良い姉妹だったんですよ」
「今では違うのか? 少なくとも、セレスタイン嬢はあなたの身の危険を案じていたはずだが」
「だからといって、昔のようにとはなりません。……声を失ってから、セレスとは距離を置きましたから。いいえ、そうするために声を失った……そう言ってもいいかもしれないのです」
「どういう意味だ」
眉をひそめるラスから目をそらし、ティナは紅茶のカップに口をつけた。カップを支える指が震えるのを隠すためだった。
「義母のカタリーナは、私の実の母エレオノーラを疎ましく思っていました。私たちが成長するにつれ、セレスは実の父であるロシュフォール侯爵の……私はエレオノーラの面影を濃くしました」
カタリーナは、ティナを見ると亡くなったエレオノーラを思い出すと言って不機嫌になった。カタリーナがどれほど公爵夫人として立派に振る舞おうが、その存在自体を尊ばれる完璧なエレオノーラを超えられない。だから、おとなしくて不器用なティナを、エレオノーラの代わりに憎んだ。
「当然、義母はセレスがかわいくて仕方ありません。私が何を言っても何をやっても、彼女は気に入らないのです。いわれのないことで、何度も叱責されました。……あるとき、私は気づいたんです。何もしなければいい。そうすれば、義母を怒らせたりもしないと」
「あなたは何も悪くないではないか」
ラスは憤ってくれるが、存在自体が罪だったのだから、果たしてそう言えるのだろうかと、ティナの心は晴れない。
「いつからか、私は部屋にこもるようになりました。誰とも話さない日々は平和でした。ああやっと、私は身を守る武器を手に入れたと思いました。それなのに……どういうわけか、ある日突然、本当に声が出なくなってしまったんです」
ティナはくしゃりと顔を歪めた。同時に、ラスの表情もかすんだ。
「私がこうなってしまったことで、セレスも何か感じていたでしょう。あれほど懐いてくれていたのに、ほとんど話さなくなりましたから……」
うつむいたら、ほおにぬるりとしたものが流れた。それは次第にかさを増し、ぽたりぽたりとひざの上で重ねる手に落ちてくる。
「ティナ……」
すぐさまラスが駆け寄り、手を握ってくれる。彼の手はいつも優しくて包み込むようで、ほっとする。誰からももらえなかった愛情のすべてが詰まっているような気がして。
「これは、ラスフォード様が気にかけてくださったことへのうれし涙なんですよ」
にこりと笑って、ティナは涙をぬぐった。
「嘘を言うな」
一喝するかのような低く押し殺した声だった。とまらない涙をぬぐい続けるうちに、気づけば長い腕に包み込まれていた。
最後にこうして抱きしめられたのは、エレオノーラが亡くなる前日だっただろうか。忘れていたぬくもりを思い出して、ティナもまた、彼の大きな背中を抱きしめた。
また、声を失うのは怖い。セレバルへ行けば、もしかしたら……と不安になる。
「私……、もう大丈夫ですよね……?」
「大丈夫だ。あなたはもう、声を失ったりしない。あなたを咎めるものはいないからだ。だから、……泣かなくていい」
まるで気持ちが伝わったかのように、ラスは濡れたほおに指をこすりつけてなぐさめてくれた。
ティナは久しぶりに羽ペンを手に取っていた。長雨が続き、ラスは街の周囲を流れる川の警戒にあたっていて、このところは毎日、夜遅くに帰宅していた。もう何日、会っていないだろう。
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親愛なるラスフォード様へ
毎日のおつとめ、大変なご苦労かと存じます。
この長雨の季節、屋敷でお過ごしになられるのではと楽しみにしておりましたが……、お忙しい日々が続き、少しさみしく感じております。
ところで、本日、妹のセレスから私宛に手紙が届きました。お相手のことは、はっきりとは書いてありませんでしたが、結婚が正式に決まったようです。結婚式にはぜひ、参加してほしい。そのような内容でした。
私はセレバルの地を二度と踏まないとの気持ちでおりますが、ふたたび、ラスフォード様にご迷惑をおかけするのではと案じております。
……いいえ、このような湿ったお話をしたいのではありません。ラスフォード様に少しでもお会いできないものかと、思いを巡らしているんですよ。
せめて、お手紙を書いている私と、お手紙を読んでいるラスフォード様が今夜、会えますように──
ティナ
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マギーに手紙を託した翌日、ラスは街のパトロールを終えると、早々に屋敷へ戻ってきた。
「ゲレール侯から詳しい話を聞いてきた。やはり、セレスタイン嬢の結婚相手はユリウス王太子のようだ」
部屋へ入ってくるなり、ラスはそう告げると、マギーの淹れた紅茶を楽しむティナの目の前に腰をおろした。
「わざわざ聞いてくださったの? 婚約が正式に発表されるのはもう少し先になるとのことでしたので、そうではないかと思っていましたが……」
久しぶりに顔を合わせた喜びを分かち合うひまもなく、ティナはほんの少しがっかりしながらそう答えた。
セレスの結婚に、特に大きな感慨はなかった。セレスは王太子妃になるのだと子どものころから聞かされていたし、むしろ、婚約が決まらなかったと聞かされた方が何倍も驚いていただろう。
「ゲレール侯に情報をもたらすのは、セレバルに滞在させている騎士団員だ。間違いないだろう。あちらも今は長雨の季節。雨があがるころに結婚式が執り行われるだろうな」
「……盛大で華やかなものになるでしょうね」
「浮かない顔をしているが、何か心配でもあるのか?」
そう尋ねるラスの方が晴れない表情をしている。
もしかしたら、王太子妃になれなかったことを、いまだに気づかっているのかもしれない。ティナはそう気づいて、口もとに笑みを浮かべて首を振る。
「セレスの結婚はうれしいんですよ。あの子にとっても、カリスト邸は少々、居心地が良くなかったでしょうから」
「なぜだ?」
ラスは首をわずかに傾けた。
「私とセレスは父と母が異なりますから……」
とはいえ、何不自由ない生活を与えてくれる公爵家で困りごとなどあるはずがない。不遇な環境で育った彼には、姉妹の立場を想像しがたいのだろう。
「私たちは小さなころ、仲の良い姉妹だったんですよ」
「今では違うのか? 少なくとも、セレスタイン嬢はあなたの身の危険を案じていたはずだが」
「だからといって、昔のようにとはなりません。……声を失ってから、セレスとは距離を置きましたから。いいえ、そうするために声を失った……そう言ってもいいかもしれないのです」
「どういう意味だ」
眉をひそめるラスから目をそらし、ティナは紅茶のカップに口をつけた。カップを支える指が震えるのを隠すためだった。
「義母のカタリーナは、私の実の母エレオノーラを疎ましく思っていました。私たちが成長するにつれ、セレスは実の父であるロシュフォール侯爵の……私はエレオノーラの面影を濃くしました」
カタリーナは、ティナを見ると亡くなったエレオノーラを思い出すと言って不機嫌になった。カタリーナがどれほど公爵夫人として立派に振る舞おうが、その存在自体を尊ばれる完璧なエレオノーラを超えられない。だから、おとなしくて不器用なティナを、エレオノーラの代わりに憎んだ。
「当然、義母はセレスがかわいくて仕方ありません。私が何を言っても何をやっても、彼女は気に入らないのです。いわれのないことで、何度も叱責されました。……あるとき、私は気づいたんです。何もしなければいい。そうすれば、義母を怒らせたりもしないと」
「あなたは何も悪くないではないか」
ラスは憤ってくれるが、存在自体が罪だったのだから、果たしてそう言えるのだろうかと、ティナの心は晴れない。
「いつからか、私は部屋にこもるようになりました。誰とも話さない日々は平和でした。ああやっと、私は身を守る武器を手に入れたと思いました。それなのに……どういうわけか、ある日突然、本当に声が出なくなってしまったんです」
ティナはくしゃりと顔を歪めた。同時に、ラスの表情もかすんだ。
「私がこうなってしまったことで、セレスも何か感じていたでしょう。あれほど懐いてくれていたのに、ほとんど話さなくなりましたから……」
うつむいたら、ほおにぬるりとしたものが流れた。それは次第にかさを増し、ぽたりぽたりとひざの上で重ねる手に落ちてくる。
「ティナ……」
すぐさまラスが駆け寄り、手を握ってくれる。彼の手はいつも優しくて包み込むようで、ほっとする。誰からももらえなかった愛情のすべてが詰まっているような気がして。
「これは、ラスフォード様が気にかけてくださったことへのうれし涙なんですよ」
にこりと笑って、ティナは涙をぬぐった。
「嘘を言うな」
一喝するかのような低く押し殺した声だった。とまらない涙をぬぐい続けるうちに、気づけば長い腕に包み込まれていた。
最後にこうして抱きしめられたのは、エレオノーラが亡くなる前日だっただろうか。忘れていたぬくもりを思い出して、ティナもまた、彼の大きな背中を抱きしめた。
また、声を失うのは怖い。セレバルへ行けば、もしかしたら……と不安になる。
「私……、もう大丈夫ですよね……?」
「大丈夫だ。あなたはもう、声を失ったりしない。あなたを咎めるものはいないからだ。だから、……泣かなくていい」
まるで気持ちが伝わったかのように、ラスは濡れたほおに指をこすりつけてなぐさめてくれた。