有能でイケメンクズな夫は今日も浮気に忙しい〜あら旦那様、もうお戻りですか?〜
七十六話〜母の記憶〜
二十年程前、ユーリウス四歳ーー
勉強を終えたユーリウスは、母ベティーナの部屋を訪ねた。
「母上、今日はこの本を読みました。それでドルフからほめられーー」
家庭教師のドルフから褒められた事を報告しようとユーリウスは嬉しそうに手にした本を見せながら話していたが、途中で話のを止めた。何故ならベティーナはユーリウスには目もくれず、ひたすら鏡台で自らの顔を眺めているからだ。
「嫌だわ、肌が少し荒れているみたい。早く治さないと、痕になりでもしたら大変だわ」
物心ついた時から母の関心は自身の容姿と夫からの愛だけだった。そこに息子の存在はない。ただ気が向いた時は話をしてくれた。それが無性に嬉しかった。だから相手にされないと分かりながらも毎日母の部屋に通った。
今は構って貰えないと察したユーリウスは大人しく窓辺に座りベティーナが自分へ気を向けてくれるのをひたすら待つ。
「まだダミアン様は戻られないの?」
「はい、そのようです……」
「きっとまたあの女の所ね」
苛々した様子で側で控えている侍女に話す。
二年前に愛人に子供が産まれてから父は外出する時間が長くなった。その事で母は機嫌が悪い事が増えた。
ユーリウスが六歳になったある日ーー
その日は、ベティーナの気まぐれで二人で街へ買い物に行った。
馬車から降り宝石商へと入ろうとした時、少し離れた建物から子連れの男女が出て来た。
それは父と愛人、そしてその子供だった。
父と愛人は寄り添い、子供は父と手を繋いでいた。
私は父と手を繋いだ記憶もないのに。
ぼんやりとそう思った。
酷く滑稽だった。
まるで向こうの方が本物の家族に見えた。
ふと隣にいる母を見るとただ黙って父達を眺めていた。
いつもなら苛々してユーリウスに八つ当たりでもするのに今日は静かだ。
ただ涙は流れていないのに、母が泣いている気がした。
「母上……」
ユーリウスはベティーナの手を握ろうとするが無言で払われてしまった。
「貴方の出来が悪いから、ダミアン様は私を愛してくれないのよ」
それから暫くしたある日、いつものように部屋を訪ねたユーリウスにベティーナはそう言った。
その日を境に母からユーリウスへ向けた言動は目に見えて厳しくなっていった。
「貴方に可愛気がないから、ダミアン様は会いにきてくれないの」
「どうして貴方みたいな出来損ないが私の子供なの⁉︎」
「貴方が生まれる前はダミアン様も私を愛してくれていたわ。ユーリウス、全部貴方のせいよ」
母が自分へ向ける目は憎しみの籠った冷たいものだった。顔を合わせる度に、暴言を浴びせられた。
以前はもう少しマシだった気がする。
それでも幼いユーリウスは母恋しさに毎日ベティーナへ会いに行くのを止めなかった。
そしてそのまま月日は流れ、ユーリウスは九歳になった。
「母上、何処へ行くんですか?」
その日も変わらず母の部屋を訪ねると使用人達が次々に荷物を運び出し馬車に積んでいた。
呆然としながらも、側にいたベティーナにユーリウスは声を掛ける。
「屋敷を出て行くのよ」
母はこちらを見る事もなく背を向け窓の外を眺めていた。
「そんな……。それなら私も一緒に連れて行って下さい!」
その言葉に母が一人で屋敷を去ろうとしている事は明らかだった。
「どうして?」
「え……」
「どうして連れて行かなくてはならないの? 私が屋敷を出て行かなくてはならないのは、貴方のせいなのに」
「私のせい……」
「貴方がもっと優秀で可愛げがあったなら、ダミアン様だってあんな女を相手になんてしなかったわ。彼はあの女を愛している訳ではないの。あの女が産んだ子供は優秀で媚を売るのが上手なのよ。だから彼はあの女を選んだの。そうじゃなければおかしいもの。私があんな女に負ける筈がないわ」
ベティーナは振り返りユーリウスを見据えると鮮やかに微笑んだ。
「ユーリウス、私はね、貴方が嫌いなの」
「っ‼︎」
「息子だからって無条件に愛して貰えているとでも思っていたの?」
「ーー」
「貴方の事なんて誰も愛していないわ。……私を不幸にした貴方に愛される資格なんてある筈ないでしょう? ーーユーリウス、さようなら」
「母上っ」
扉へと向かうベティーナのスカートをユーリウスは無意識に掴んだ。だが直ぐに振り払われてしまう。
ベティーナはそのまま一度も振り返る事なく屋敷を去っていった。