■□ 死 角 □■
合わせ鏡

■合わせ鏡


男の人に―――抱きしめられた。
―――……はじめて、のことだ。

考えて、慌てて頭を振る。曽田刑事さんが私を抱きしめてきたのは、単に私が興奮していて手が付けられなかったから、だわ。久保田刑事さんはその出来事に怒っているようだったけれど、私は曽田刑事さんを訴えるつもりなんてないし。

それにしても……

私は自分の掌を見つめて、今も尚残っている曽田刑事さんのあたたかな温もりや、筋肉質な体、そして粗野なのにどこか爽やかな部分が見え隠れしている香りが
忘れられない。

「何考えてるの、私は」玄関口で靴を脱ぎ、自分の考えが嫌になって思わずその場にしゃがみ込んだ。きっとはじめてそうされたから戸惑っているだけだよ。
どれぐらいそうしていただろう。バッグの中でスマホが震えるのが分かって、のろのろと取り出すと、

着信:鈴原さん

になっていて、目を開いた。

別に鈴原さんに見られてるわけじゃないのに、さっきのことを思い出すと何故だか居心地が悪く、それでも何か分かったのかしら、と言う思いで電話に出た。

『もしもし……お休みの日にすみません』と鈴原さんは切り出した。
「いいえ、大丈夫です。何か分かりましたか…」と聞くと
『いえ……残念ながらまだ何も……今日はその……灯理さんが少し心配でして。俺の所にはきてませんが、陽菜紀からまたメールとか…来てませんか?あと…不審者とかうろついてませんか』

優しい人だ。鈴原さんだってきっと休日だろうに、私のこと気に掛けてくれる。それでなくとも毎日のようにきちんと送り届けてくれるし。

「ええ、今の所大丈夫です」と何とか答えた。電話をしながら、それでもちょっと気になってカーテンの隙間から外を覗いたが、いかにも通りすがりと言った感じの人や、ご近所さんたちしか通っていない。そのことにほっとする。

ついで部屋を見渡すと、料理中に優ちゃんに呼び出されたから、キッチンにはまな板の上に切りかけのベーコンと包丁が乗っている。私ったら……みっともない。こんな無精な所鈴原さんに知られたくない、と思いで慌てて包丁をシンクに入れ、切りかけのベーコンを三角コーナーに……その途中で

『本当に大丈夫ですか…?』と鈴原さんが質問してきて、

「え―――……?」私はベーコンを三角コーナーに捨てる手を途中で止めた。

『いえ…声に少し元気がないようでしたから』

鈴原さんの声に思わず、捨てる筈だったベーコンをぎゅっと握った。掌にベーコンの脂がしみこんでいくのが分かった。これできっとさっきの曽田刑事さんの感触を忘れられる―――そう思った。

「実は―――……」
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