【SS投稿中】殿下、私を解放していただきます。〜 妹を選んだ王太子に婚約破棄された有能令嬢の、その後の人生 〜

49. 初めての夜

 厳かな式は無事終わり、その後はセルウィン公爵邸での晩餐会となった。遠方の領地や他国から参列してくださった方々の中には、式の後すぐお帰りになった方もいたので、全員がセルウィン公爵本邸にやって来たわけではない。けれど、それでもかなりの大人数が本邸へと集まった。実は私もこのお屋敷に足を踏み入れるのは、今日が初めて。まだ前公爵夫妻がお住まいの別邸にしか行ったことがなかったのだ。屋敷というよりも城といった方がしっくりくる広大かつ重厚な建物に、私は圧倒された。今日からここで暮らすのか、そしてこの私が、ここの家政の一切を取り仕切ることになるのか、と。

 晩餐会は大盛況で、国内外の多くの方々から絶え間なく祝いの言葉を贈られた。来客の各々が帰り、また遠方の方は来客用の別棟に整えてある部屋に入り、ようやく長い一日が幕を閉じた。
 セルウィン公爵家の家令に案内され、私も自分の私室へと向かう。

「こちらが奥様のお部屋でございます。隣がご夫婦の寝室となり、寝室を挟んだ奥が旦那様のお部屋となっております。どうぞ、お支度が終わられましたら隣の寝室でお休みくださいませ」
「……ええ、分かったわ。どうもありがとう」

 暗に「閨事を迎える準備ができたら寝室でクロード様を待て」と言われたようでドキドキする。私はミハを連れ、室内へと足を踏み入れた。

「……まぁ……っ」
「……さすがはセルウィン公爵家の大豪邸。奥方の私室もまた、見事でございますね……」

 私もミハも、部屋の中を見渡してあんぐりと口を開けた。ハートネル侯爵邸だってかなり大きな屋敷だし、私の部屋もそれなりに広く、常に優美に整えられていた。
 けれど、ここの比ではない。
 壁や天井はクリーム色で統一されており、可愛らしい装飾の豪奢なシャンデリアの光とも相まって、とても明るい雰囲気だ。家具は優しい茶系、カーテンは落ち着いたベージュピンクでまとまり、私の年齢や趣味を考慮してくれたのだと分かる趣きだ。繊細なレリーフが施された中央のテーブルには、赤やピンク、白などの美しい花々が、これまた見事な花瓶に挿して飾られていた。今日からこの素敵なお部屋が私の私室になるのだ。クロード様と部屋を整えてくれたセルウィン公爵家の使用人たちに心から感謝しながら、私はミハに促されるままに湯浴みを行った。

 湯浴みが終わると、ミハは私の体を隅々まで丹念に手入れした。その表情は真剣そのもの。鬼気迫る勢いだ。

「……このクリーム、とてもいい香りがするわ」
「以前リウエ王国で奥様がお求めになられた、薔薇のエキスを抽出したクリームでございます。全てのボディークリームの香りを検分し、これこそと思い選ばせていただきました」

 式の前まで普段通り私を「お嬢様」と呼んでいたのに、もう淀みなく「奥様」と呼んでいるミハに感心しながら、私はソファーの上でされるがままに身を任せ、礼を言った。

「ふふ。ありがとうミハ」
「奥様にとって、今宵は特別な夜でございますから」
「……緊張するわ」

 ついそう漏らすと、ミハが手を止め、表情を緩める。そして優しい眼差しで私を見つめた。

「大丈夫でございますよ、奥様。何もご心配には及びません。旦那様は奥様に首ったけです。お優しくしてくださいますよ」
「……ええ。そうね」

 首ったけかどうかは分からないけれど、優しい方なのは間違いない。
 ミハのマッサージを受けながら、私は胸の鼓動を少しでも静めようと大きく息を吐いた。



 薄い夜着を着せられた後、隣の寝室に続いている扉をそっと開けた。するとそこには、すでにクロード様の姿があった。彼の姿を認めた途端、心臓が一際大きく跳ねる。クロード様は白いガウンを羽織り、ソファーに座っていた。彼も湯浴みを済ませたのだろう。濡れた前髪が額に落ち、妙に色っぽい。何かを飲みながら、ローテーブルの上のランプの灯りで本を読んでいる。私が入ってきたことに気付くと、彼は表情を和らげた。

「湯浴みをして少しは疲れが取れたか」
「は、はい。……今日はありがとうございました、クロード様。お忙しい日々が続いていらっしゃって、大変でしたでしょうに……。とても素敵な式でしたわ」

 どうしよう。声が上擦って震える。閨でのことはもちろん分かっているけれど、何もかもが初めてで緊張するし、正直怖い。何より恥ずかしい。
 扉のそばでガチガチに固まったまま立ち尽くしていると、クロード様がソファーから静かに立ち上がり、私の元へゆっくりと歩いてきた。

「……おいで、エリッサ」

 彼は低く優しい声でそう言うと、私の手をそっと握った。そのまま私を導くようにベッドへと向かう。……扉を開けた瞬間から視界の端に映っていた、キングサイズの真っ白なベッド。見ないようにしていた。だけどもう、逃げ場はない。何の涙なのかは分からないけれど、なぜだか無性に泣きたくなった。
 クロード様が灯りを小さく落とす。今にも失神しそうなほど緊張している私は頭が真っ白で、思うように体が動かせない。そんな私を、クロード様は軽々と横抱きに抱き上げた。太くたくましい彼の腕の筋肉をダイレクトに体に感じ、喉がヒュッと鳴る。
 私をゆっくりと優しく横たえると、その直後、ベッドが大きく沈み、彼も隣に来たのだと分かった。分かった、というのは、私がいつの間にか固く目を閉じていてその姿を見ていないからだ。あれだけ様々なことを勉強してきて、あらゆる知識を身に着け、どこの国のどんな立場の方々と会話を交わすことも、どんな社交場に出ることも難なくこなせるこの私が、まさかここまで何もできなくなるとは。尊敬し深く好意を抱く殿方と、初めての夜を過ごす。それは私にとって、人生の他のどの経験よりも大切で特別だからこそ、とても冷静でなどいられなかった。
 いよいよその瞬間が来たんだ、クロード様に不快な思いをさせないようにしなくては。大丈夫……閨についてもしっかり学んできた。後はクロード様の望むままに……。
 何度も頭の中でこの後のことをシミュレーションしながら固く目を閉じ、仰向けになったままジッとしていると、クロード様の低い声がした。

「君のウェディングドレス姿が、まだ目に焼き付いている。いつも会うたびに美しさに見惚れていたが、今日は格別だった。その夜着姿も、なかなか新鮮だ」

(……。……ん?)

 あ、あれ?
 
 いつもの口調で話しかけられ、私はおそるおそる目を開ける。私の上に覆い被さるのだと思っていたクロード様は、私の隣で頬杖をつき、こちらをジッと見つめていた。オレンジ色のかすかな灯りに照らされた左頬の大きな傷が、存在感を放っている。ガウンの前が大きくはだけ、ぶ厚い胸の筋肉が見える。

「……クロード様こそ、とても素敵でしたわ」
 
 掠れた小さな声でそう答えると、彼は目を細めた。

「晩餐会も盛況で良かった。最後に挨拶を交わしていたのが、君の学園時代の同級生たちだと言っていたな」
「あ……、ええ、そうなんです。私が学園に通った日々は皆よりだいぶ少ないのですが、彼女たちのところは外交を重視するお家柄でして、話がとても合うんです」
「ほう」

 そこから私の学園時代の話になり、やがて話題はこのお屋敷や私のお部屋、そしてセルウィン公爵領のことに移った。
 ベッドに横になったままクロード様とお喋りを続けるうち、さっきまでの緊張が嘘のように、私の体からは余計な力が抜けていた。
 そうして小一時間も語り合っていると、ふいにクロード様がこちらに手を伸ばし、私の髪を一房取った。そしてさりげない仕草で、その髪を自身の唇に押し当てる。
 
(……あ……)

 その姿を見て、私は我に返った。……そうだ。私たち今、新婚初夜のベッドの中にいるのよね、と。
 クロード様は私のストロベリーブロンドを仄かな灯りに翳すように見つめ、ポツリと呟いた。

「……初めて会った瞬間から、印象的だった。君のこの、真っ直ぐな美しい髪が」
「……そう、ですか?」
「ああ」
「……お好きですか? 私の……この髪」

 何を聞いているんだか、ふいに変わった甘い雰囲気に呑まれ、ほとんど無意識にそんなことを尋ねてしまった。
 クロード様は私の目を見つめ、答えた。

「好きだ」
「……っ、」
「君の何もかもが」

 そう言うと、彼は私の髪を触っていた手で私の頭をそっと撫で、ごく自然に私の額にキスをした。上品なムスクの香りが鼻腔をふわりとくすぐり、ふいに二人で馬に乗った日のことが脳裏をよぎった。
 この方は、いつも優しい。
 ベッドに入ってからたくさんお話しをしてくださったのも、私の緊張を解そうとするクロード様の気遣いだったのだということに、この瞬間やっと気付いた。
 唇を離し、まるで覚悟を問うかのように、至近距離からジッと私の瞳を見つめるクロード様。心は不思議なほど落ち着き、今どうしても伝えておきたい言葉が自然と口をついて出た。

「クロード様……。私、自分がこんな幸せな結婚をできる日がくるなんて、夢にも思ったことはございませんでした。苦しくても、理不尽でも、定められた道の上を、私情を押し殺してただ歩いていくしかないのだと、そう思っていたから。……ありがとうございます、私を選んでくださって。あなたをお慕いしています、心から。……どうぞ、お望みのままに」
 
 私がそう言うと、クロード様はふいに苦しげな表情で眉間に皺を寄せ、小さく息をついた。

「……君という人は……。優しくしようと今まさに己の心に刻んでいるこの私に、何という殺し文句を……」
「え……っ?」

 クロード様はおもむろに体勢を変えると、私の両脇に腕をつき、守るように覆い被さる。

「尽力しよう。君に生涯そう思ってもらえるように。……それと、今夜できる限り、君の体に負担をかけないように」

 そう言ったクロード様は、そのまま私に唇を重ねた。それはあっという間に濃密なものへと変わる。
 必死に応えているうちに、彼の指が器用に私の夜着のリボンを解いた。
 羞恥と緊張と彼への愛おしさで、体中が汗ばむほど熱くなる。
 その夜クロード様の唇は、幾度となく私に甘い愛を囁いた。

「愛している、エリッサ────」



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