秘めた恋は、焔よりも深く。

不意打ちの優しさに、揺れる

「佐倉さん、ちょっと時間あるかな?」

社長としてではなく、どこか柔らかい声で呼び止められた美咲は、一瞬きょとんとして立ち止まる。

「はい、何かございましたか?」

「いや、別にたいした話じゃないんだけどね。……最近、黒瀬とよくやり取りしてくれてるね」

「ええ、業務上必要なことですので」

「うん、それは分かってる。でも、彼が君の話をするとき、ちょっとだけ声が和らぐんだよ。気づいてた?」

「……いえ。存じませんでした」

「ふふ、そうか。……まあ、あいつのそういうところに気づけるのは、俺くらいかもしれないけどね」

そう言って真樹は、いつものような鋭い視線ではなく、どこか穏やかで深い眼差しを彼女に向けた。

「佐倉さんは、よく頑張ってくれてると思ってる。……あまり、自分のことを後回しにしすぎないようにね」

「……ありがとうございます」

何気ないようでいて、妙に胸の奥に残る言葉。
それは“社長からの労い”というより、“一人の大人の男”としての、さりげない気遣いに近かった。

「佐倉さん、ところで……君、コーヒーはブラック派?」

「えっ……? あ、はい。どちらかといえば」

「やっぱり。そんな気がしたんだ。なんとなくね」

ふ、と笑ったその表情に、美咲は思わずまばたきをした。
社長がこんな風に個人的な話をするのは珍しい。

「甘いのは……あまりお好きじゃないんですか?」

「昔は甘党だったんだけどね。最近は、苦味の奥にある味が、案外いいと思えてきた。……年のせいかな」

「……そういうものなんですかね」

「……歳月って、不思議だよね。
ふとした瞬間に、人を美しく見せる。きっと、それまでの全部が、にじむから」

「……っ」

言われ慣れていない言葉に、美咲の背筋がわずかに伸びる。

それを感じ取りながらも、真樹は何事もなかったかのように、カップに視線を落とした。

「……失礼しました。戻ります」

「うん、ありがとう。またゆっくり話そう」

龍之介の気配に、美咲がどこまで気づいているのかは分からない。

だが、彼女の中にある“凍った湖面”のようなもの。その静けさが、時折ふっと揺れるのを、真樹は見逃さなかった。

あいつ(龍之介)が焦れているのも知っている。
けれど、それを口にするつもりはない。

……ただ。

美咲が、誰かにほんの少し心をゆだねることができるなら。
それが、あいつなら.....なお、いい。

そのために、ほんの少しだけ。
氷が溶ける音を、そっと耳元に届けてやるくらいは、してもいいかもしれない。

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