秘めた恋は、焔よりも深く。
この距離は、偶然じゃない
会議の報告を終えて社長室に戻ると、佐倉が資料の整理をしていた。
社内で、佐倉美咲の名前を知らない社員はいない。
佐倉美咲。
現在、経営企画部に所属し、社長室付きの役職を持つ。秘書ではなく、
重要なプロジェクトの推進役としても知られる存在だ。
冷静沈着。理路整然。
誰に対しても丁寧で、礼を欠かさない。
けれどその笑顔は、どこか“ガラス越し”のように見える。
そんな声も、時折聞こえてくる。
有能で、美人。
だが、感情を表に出さない。
良くも悪くも「隙のない人」として知られている。
誰かに甘える姿も、声を荒らげる姿も、誰も見たことがない。
だからこそ、直属の上司すらも、彼女を「完璧すぎて掴みどころがない」と評するのだった。
無駄口ひとつ叩かず、淡々と手を動かしている。その所作に乱れはない。
完璧主義なところは、少し俺に似てる。
「佐倉さん。来週の講演資料、進捗は?」
声は意図的に抑え気味。
俺は職場で誰に対してもそういう話し方をしている。
不要な感情を含ませれば、仕事の信頼は崩れる。
第一秘書とは、そういう役割だ。
彼女は顔を上げずに言った。
「本日中に最終稿をお送りします。すでに滝沢社長の予定とも整合済みです」
……やっぱり、期待を裏切らない。
「了解。抜かりはないと思うが、データは三重でバックアップを」
「承知しました」
返事も正確。動きも速い。
それなのに、一瞬だけ、目が合ったその時。
ほんの少しだけ、表情が揺れた気がした。
(また、顔に出てるか?)
意識しないようにすればするほど、気になるのはなぜだろうな。
たった一言、くだらない冗談でも言ってやれば、
もう少し楽になれる気がするのに。
「……いや、なんでもない。引き続き頼む」
冷たく響いた自覚はある。でも、それでいい。
それが俺の“社内での顔”。
これ以上、顔に出すわけにはいかない。
この距離を崩すなら、それは、もっと彼女が無防備なときに、だ。
社内での俺は、冷たいとか、近寄りがたいとか、
いろいろ勝手に言われているらしい。
……まあ、否定はしない。
滝沢の第一秘書なんてものは、
「感情を持たない便利な男」でいればいい。
それが、この立場での最適解だからだ。
もう52になる。
離婚して、20年は経った。
子どもはいない。
一度きりの結婚も、「もうこりごり」ってほどじゃなかったけど、
正直、心が動くことなんて、もうないと思ってた。
だけど、佐倉美咲だけはどうにも例外だった。
最初はただの仕事相手だった。無駄がなくて、表情にも出さない。
自分を律し続けるその姿が、どこか他人に見えなかった。
週一で顔を出している社会人バスケ部でも、あんな女性はいない。
汗まみれになっても平気で笑う連中の中に、ああいう静けさを纏った人間はいない。
あの静けさは、剣道の時の鍛錬を思い出させる。
久しぶりに師匠の道場へ行こうか、龍之介はふと思った。
剣道を長いこと続けているからこそ、
あの静謐さの中に隠された強さを、どこかで感じ取っていた。
……だからこそ、目が離せなくなったのかもしれない。
真樹には、気づかれてる気がする。アイツとはガキの頃から腐れ縁だ。
顔を見れば大体の感情くらいは読まれる。
でもアイツは、何も言わない。ただ、笑って見てやがる。
佐倉美咲。
あの女性だけは、
俺の“冷徹”の奥にあるものを、うっすら感じ取ってる気がする。
目が合ったときの、あの一瞬の揺れ。
あれが、たまらなく好きだ。
もうちょっとだけこの距離を保っていれば、きっと彼女のほうから、俺を見てくれる。
そう思ってたはずなのに。
……最近はもう、その余裕すら危うくなってきてる。
本当は、毎日、何回も彼女のこと考えてるのに。
週末の予定を聞きたくなるたび、
「そんなことを訊く立場じゃない」と自分に言い聞かせて、飲み込んできた。
でも、最近わかってきた。
たぶん俺、もう、ただの打算的な付き合いなんて無理だ。
彼女に関しては、最初からそれすらできなかった。
見ているだけじゃ足りない。言葉にしないと気が済まない。
触れないままじゃ、どんどん欲が増していく。
本気で、連れて帰りたくなるときがある。
ただ一緒に食事したいだけだったはずが、
気づけばその先のことまで、想像している自分がいる。
龍之介はこれまで、女性に困ったことは一度もなかった。
だが、離婚してからは、真剣な付き合いを避けてきたし、
それを求めるような女性にも出会うことがなかった。
……なんで彼女なんだろうな。
でも、そう思える女がいるってことが、案外、悪くないと思ってる自分もいる。
社内で、佐倉美咲の名前を知らない社員はいない。
佐倉美咲。
現在、経営企画部に所属し、社長室付きの役職を持つ。秘書ではなく、
重要なプロジェクトの推進役としても知られる存在だ。
冷静沈着。理路整然。
誰に対しても丁寧で、礼を欠かさない。
けれどその笑顔は、どこか“ガラス越し”のように見える。
そんな声も、時折聞こえてくる。
有能で、美人。
だが、感情を表に出さない。
良くも悪くも「隙のない人」として知られている。
誰かに甘える姿も、声を荒らげる姿も、誰も見たことがない。
だからこそ、直属の上司すらも、彼女を「完璧すぎて掴みどころがない」と評するのだった。
無駄口ひとつ叩かず、淡々と手を動かしている。その所作に乱れはない。
完璧主義なところは、少し俺に似てる。
「佐倉さん。来週の講演資料、進捗は?」
声は意図的に抑え気味。
俺は職場で誰に対してもそういう話し方をしている。
不要な感情を含ませれば、仕事の信頼は崩れる。
第一秘書とは、そういう役割だ。
彼女は顔を上げずに言った。
「本日中に最終稿をお送りします。すでに滝沢社長の予定とも整合済みです」
……やっぱり、期待を裏切らない。
「了解。抜かりはないと思うが、データは三重でバックアップを」
「承知しました」
返事も正確。動きも速い。
それなのに、一瞬だけ、目が合ったその時。
ほんの少しだけ、表情が揺れた気がした。
(また、顔に出てるか?)
意識しないようにすればするほど、気になるのはなぜだろうな。
たった一言、くだらない冗談でも言ってやれば、
もう少し楽になれる気がするのに。
「……いや、なんでもない。引き続き頼む」
冷たく響いた自覚はある。でも、それでいい。
それが俺の“社内での顔”。
これ以上、顔に出すわけにはいかない。
この距離を崩すなら、それは、もっと彼女が無防備なときに、だ。
社内での俺は、冷たいとか、近寄りがたいとか、
いろいろ勝手に言われているらしい。
……まあ、否定はしない。
滝沢の第一秘書なんてものは、
「感情を持たない便利な男」でいればいい。
それが、この立場での最適解だからだ。
もう52になる。
離婚して、20年は経った。
子どもはいない。
一度きりの結婚も、「もうこりごり」ってほどじゃなかったけど、
正直、心が動くことなんて、もうないと思ってた。
だけど、佐倉美咲だけはどうにも例外だった。
最初はただの仕事相手だった。無駄がなくて、表情にも出さない。
自分を律し続けるその姿が、どこか他人に見えなかった。
週一で顔を出している社会人バスケ部でも、あんな女性はいない。
汗まみれになっても平気で笑う連中の中に、ああいう静けさを纏った人間はいない。
あの静けさは、剣道の時の鍛錬を思い出させる。
久しぶりに師匠の道場へ行こうか、龍之介はふと思った。
剣道を長いこと続けているからこそ、
あの静謐さの中に隠された強さを、どこかで感じ取っていた。
……だからこそ、目が離せなくなったのかもしれない。
真樹には、気づかれてる気がする。アイツとはガキの頃から腐れ縁だ。
顔を見れば大体の感情くらいは読まれる。
でもアイツは、何も言わない。ただ、笑って見てやがる。
佐倉美咲。
あの女性だけは、
俺の“冷徹”の奥にあるものを、うっすら感じ取ってる気がする。
目が合ったときの、あの一瞬の揺れ。
あれが、たまらなく好きだ。
もうちょっとだけこの距離を保っていれば、きっと彼女のほうから、俺を見てくれる。
そう思ってたはずなのに。
……最近はもう、その余裕すら危うくなってきてる。
本当は、毎日、何回も彼女のこと考えてるのに。
週末の予定を聞きたくなるたび、
「そんなことを訊く立場じゃない」と自分に言い聞かせて、飲み込んできた。
でも、最近わかってきた。
たぶん俺、もう、ただの打算的な付き合いなんて無理だ。
彼女に関しては、最初からそれすらできなかった。
見ているだけじゃ足りない。言葉にしないと気が済まない。
触れないままじゃ、どんどん欲が増していく。
本気で、連れて帰りたくなるときがある。
ただ一緒に食事したいだけだったはずが、
気づけばその先のことまで、想像している自分がいる。
龍之介はこれまで、女性に困ったことは一度もなかった。
だが、離婚してからは、真剣な付き合いを避けてきたし、
それを求めるような女性にも出会うことがなかった。
……なんで彼女なんだろうな。
でも、そう思える女がいるってことが、案外、悪くないと思ってる自分もいる。