秘めた恋は、焔よりも深く。

笑いのあとに訪れた闇、その腕に救われた夜

金曜日の午後。
定時を迎える少し前、隣の席の部下・森川がそっと声をかけてきた。
「佐倉さん、今夜、みんなで軽く飲みに行くんですけど……よかったらご一緒しませんか?」

いつもの自分なら、自然と微笑んで断っていたはずだった。
仕事が残っているので。
今日はちょっと予定があって。

そう言えば、相手も納得してくれるし、誰も傷つかない。
それが、美咲にとっての“安全な距離感”だった。

けれどその日は、ふと口から出た言葉が違っていた。
「……じゃあ、少しだけなら」

自分でも驚いた。
驚いたのは、森川も同じだったようで、目をまるくしてからぱっと笑顔を浮かべた。
「えっ……本当ですか? うれしい! じゃあ駅前の店、予約しますね!」

軽やかな足取りで戻っていく森川を見ながら、美咲は小さくため息をついた。

(……まあ、たまにはいいか)

参加したのは、女性社員3人と男性2人。
皆、美咲よりも若い。

30代前半の森川と田島、30代後半の落合は女性で、うち一人は既婚者。
男性陣は営業部の後輩ふたり、どちらも未婚だが恋人あり。

気を遣ってくれているのが分かる、軽めの会話。
グラスが並び、笑い声が飛び交う。
居酒屋の賑やかさが、思った以上に心地よかった。
初こそ緊張していたが、気づけば自分も笑っていた。

(こんなふうに笑うの、……いつ以来だろう)

一緒にいた彼らが“自分に何かを期待していない”ことに、少し安心したのかもしれない。
部下ではあるけれど、誰も“女としてどうあるべき”なんて押しつけてこない。
ただ、対等に、ひとりの大人として会話を交わしてくれる。

「あの、佐倉さんって、実は……天然なとこありますよね?」

田島の冗談に、みんなが笑った。
美咲も、少しだけ肩をすくめて微笑んだ。

(……悪くないな、こういう時間も)

少しずつ、何かが変わってきている。

それは、誰かに言われたからではなく、自分の中から生まれている“変化”。
そのことに、気づき始めていた。

仕事帰りの賑わいの中、テーブルには串盛りとグラスが並び、話題は自然と“恋バナ”へ。
森川と落合が「推し活」と「年下彼氏」を語り合い、既婚の田島は夫との馴れ初めを照れくさそうに明かす。
田島が、既婚者ならではの“生活あるある”を笑いながら話し、
営業部の池田と高瀬もそれぞれの交際エピソードで盛り上がり、恋人との旅行や同棲の話をさらっと語った。
場がひとしきり笑いに包まれたところで.......視線が美咲に集まった。

「……佐倉さんは、どうなんですか? 恋愛とか……」

森川が、どこか遠慮がちに訊ねる。

美咲は、一拍置いてから笑った。
「私は……もう、一人でいいかなって思ってるの」

「えぇーっ、もったいないですよ!」
田島が思わず声をあげる。

「佐倉さん、絶対モテますって。あの落ち着きと雰囲気……憧れですもん、正直」

「そんなこと、ないわよ」
微笑みながら否定しかけたそのとき、落合が口を開いた。

「そんなことあるんですよ」
湯気の立つ茶碗蒸しを差し出しながら、笑みを含んだ目で、美咲を見る。

「この間、松田商事の部長さん、うちに来てたじゃないですか。あの、専務の松田さん。
私、聞かれましたよ。“佐倉さん、いい人いるのか?”って」

「え……?」

箸を持つ手がふと止まる。

「うそっ、マジですか? あの松田さん、けっこう目利きって聞きますよ」
森川が面白がるように身を乗り出す。

「本当です。“お綺麗ですね、佐倉さんは”って、それはもう、ちょっと照れてる感じで言ってましたよ」

美咲は、返す言葉に困った。

社交辞令……のつもりなのかもしれない。
けれど、思いもよらないところからふいに名前が挙がると、
自分という存在が、誰かの話題になることがまだどこか不慣れで。
なのに、不思議と、心のどこかがじんわりと熱を持っているのを感じた。

(……まだ、そんなふうに言ってくれる人が、いるんだ)

ほんの少しだけ、過去の“私は価値がない”という思い込みが揺らいだ気がした。

「……まあ、それはその場の流れでしょう」
そう言って軽く笑ってみせると、落合がにっこりと返した。

「でも、誰かが“素敵だ”って思ってることには、違いないですよ」

そう言われて、なぜか胸の奥が少しだけ、あたたかくなった。

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