秘めた恋は、焔よりも深く。

ぬくもりの距離

朝の光がレースのカーテンを透けて差し込む。
時計を見ると、まだ午前8時を少し過ぎたところだった。

(……ちゃんと、お礼を伝えなきゃ)

ソファに座り、スマートフォンを手に取る。
昨夜登録されたばかりの「黒瀬龍之介(私用)」の文字が表示される。
美咲は一度深呼吸してから、メッセージを打ち始めた。

『昨夜は、本当にありがとうございました。
あのとき、黒瀬さんがいてくださって心強かったです。
無事に帰宅できたこと、心から感謝しています。』

(……少し、堅いかな)

そう思いながらも、
これ以上言葉を重ねると、うまく伝えられなくなりそうで。
あえてそれ以上は書かなかった。

指が少し迷ってから、「送信」を押す。
送ったあとの画面をしばらく見つめていたが、
スマートフォンを伏せて、そっと微笑んだ。

昨夜より、ほんの少しだけ心が軽くなっていた。

「……今日は、ちゃんと外に出よう」

昼下がりの陽射しはやわらかく、風も涼しかった。
昨夜の出来事がまだどこか身体に残っていたけれど、
家に閉じこもっていても、気持ちは沈んでいくだけな気がした。

向かったのは、以前から気になっていたキャンプ用品専門店。
近ごろキャンプ場で話題になっていたキャンプ用食料品に、少しだけ興味が湧いていた。
店内に入ると、木材とレザーの匂い、キャンドルや焚き火台の金属の光。
外の空気とは違う、静かな高揚感に包まれた。

(……面白い。)

小型のランタンや、シングル用の折り畳みチェア、
焚き火台の横には、シンプルなマグと鉄鍋が並んでいる。
ソロキャンプ用のブースには、女性客向けのグッズも充実していた。
ナチュラルな色合いの寝袋や、控えめなデザインのポータブルバーナー。

そう思いながら手に取ったのは、柔らかなベージュのキャンプ用ブランケットだった。

「これ……肌触り、いい」

指先に触れた感触に、なんだかほっとする。

店員が声をかけてくる。
「それ、人気なんですよ。女性の方にも好評で。社内キャンプ部とかにもよく使われてるみたいです」

「……キャンプ部?」
思わず聞き返すと、店員はにっこり笑った。

「ええ、最近は会社単位でキャンプやってる人も多くて。
お客さんの中にも、秘書課の方とか、企画の方とか、よくいらしてますよ」

「そうなんですか」

手にしていたのは、柔らかな生成り色のウールブランケット。
ナチュラルな風合いで、軽いのにしっかりと温かそう。
ソロ用のキャンプコーナーに並ぶその一枚を、美咲はずっと手にしたまま、
買うべきかどうか、立ち尽くしていた。

(……本当に、使うのかな)

そう思いながら、ふとタグを裏返すと、

「……あれ? 佐倉さん?」

低く、けれどどこか柔らかな声が、美咲の背後から響いた。

(え……?)

驚いて振り返ったその視線の先にいたのは…

ジーンズに無造作な白Tシャツ、その上からグレーのカーディガンを羽織った黒瀬龍之介だった。

スーツ姿とはまるで違う。
洗練された、けれどどこか“自然体の男らしさ”が滲んでいる。
髪は少し無造作に乱れ、けれどその影すら絵になるようで。
その佇まいに、思わず言葉が出なかった。

「……黒瀬さん?」

「うん、びっくりした。まさかここで会うとは」

龍之介が、口の端を緩めて笑う。
その微笑があまりにさりげなくて、美咲は胸の奥がふっと熱くなるのを感じた。

「おひとりですか?」

「ええ……ちょっと、見るだけのつもりで」

美咲が手に持っていたブランケットを龍之介が目に留める。

「それ、あったかいですよ。俺も色違い、持ってます」

「えっ……黒瀬さん、キャンプ、されるんですか?」

「ああ。ソロで、たまに。火を眺めてるだけの夜が、好きなんです」

「……なんだか、意外です」

「よく言われます」

その応えに、ふたりの間に小さな笑いがこぼれる。

龍之介が問うような眼差しで見てくる。

「佐倉さんは?」

美咲は少し迷ったあと、そっと微笑んだ。

「じつは……私も一人で行くことがあります。テント張って、焚き火して、静かな場所で本読むのが、すごく好きで」

「……それは、もっと意外ですね」

「ですよね。でも、都会も好きなんですけど、たまに自然の中にいたくなります」

そう言って微笑む美咲に、龍之介は少し目を細めた。

その瞳に、どこか親しみと敬意が同時に宿っている気がした。

「じゃあ、この店も馴染み?」

「ええ。ここのダウンブランケット、前から気になってて」

「ほんとだ。選び方が……慣れてる人の目ですね」

「……バレました?」

美咲が少しだけ肩をすくめると、龍之介は、くすっと喉の奥で笑った。

「それにしても。こんなところで、同じ趣味だとは」

「ですね。なんだか、ちょっと不思議」

偶然というには、少しだけ出来すぎているような。
でもそれが、いやじゃなかった。

「佐倉さんのキャンプ、見てみたいな」

ふと落ち着いた声でそう言われて、美咲はほんの少し目を見開いた。

「……そのうち、機会があれば」

そう応えながら、胸の奥に火が灯るのを感じた。
焚き火のように、じんわりと、あたたかく。
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