秘めた恋は、焔よりも深く。

松田専務

水曜日の午後。
社長室での打ち合わせを終えた松田商事の専務・松田が、静かにフロアを出てきた。

その廊下の先、自販機の前でお茶を手にしていた女性に気づき、足を止める。
「……佐倉さんですね?」
穏やかで落ち着いた低音の声が、後ろから静かに届いた。

「はい……あっ、松田専務。お疲れさまです」
美咲は驚いたように振り返り、慌てて一礼した。

「いえ、こちらこそ。今日は貴重なお時間を頂戴しました」
深々と礼を返す松田。その所作には、長年ビジネスの第一線で培ってきた品と風格がにじんでいる。

「こちらこそ、お目にかかれて光栄です。
社長から、佐倉さんのことは時折うかがっていますよ。とても信頼されていると」

「……恐れ入ります。私など、まだまだで……」

松田は静かに微笑を浮かべたまま、しばしその場に立ち止まり、彼女を見つめる。
「唐突なお誘いになるかもしれませんが.....」
「もしご迷惑でなければ、今度、お食事をご一緒しませんか?」

言葉自体は控えめなのに、その目には確かな意志があった。
「……一人の男として、佐倉さんと少し話してみたいと思ったんです」

美咲は一瞬、その言葉の熱に息を呑む。
けれど彼の表情は終始穏やかで、無理に踏み込むような色は見えない。
「……ご丁寧にありがとうございます。お気持ちだけ、ありがたく頂戴します」

「そうですか。それでも、少し嬉しいですね」
松田は微笑みながらも、どこか未練を残すように言葉を結ぶ。

「またお目にかかる機会があれば……その時は、少しだけ期待してもいいですか?」

そのまま静かに礼をして、松田は歩き去っていく。

彼の後ろ姿を、美咲は手にしたお茶缶の温もりとともに、しばらく黙って見送っていた。

「落合さん、聞いてくださいよ〜!」

田島は資料を小脇に抱えたまま、社長室前のカウンターに駆け込んできた。
ちょうど応接用のコーヒーをトレイに並べていた落合が、目を丸くして振り返る。

「なに、どうしたの?」

「さっき!廊下で見ちゃったんです。佐倉さんですよ、佐倉さんが、
松田商事の専務に、食事に誘われてました!」

「えぇっ⁉︎」
落合の声が、ひそやかながらも裏返る。

「って、あの松田専務?あの人……たしか松田商事の御曹司って噂の?」

「そうそう、それですそれ!背も高くて、落ち着いた雰囲気で、めちゃくちゃ品があって……
なんかこう、大人の余裕っていうか。佐倉さんに、めちゃくちゃ自然に声かけてて!」

「で、で、佐倉さん、どうしたの?なんて答えてた?」

「それがですね……」

その時。

「……何の話だ?」
低く静かな声がすぐ背後から降ってきた。
二人が振り向くと、黒瀬龍之介が報告書を片手に、社長室から出てきたところだった。

「く、黒瀬さんっ……!」
田島が固まる。落合も気まずそうにトレイを持ったまま微妙に固まった。

「……い、いえ、その……ちょっとした世間話で……」

「ふうん」
黒瀬は視線を逸らさずに田島を見る。表情に変化はない。ただ、その目の奥に静かな影が差す。

「佐倉さんがどうかしたのか?」

「い、いえ……さ、佐倉さん、戻ってきました!」

田島が話を逸らすようにドアの方を指差した。
ちょうど美咲が静かにエレベーターホールから戻ってきたところだった。
表情は変わらず穏やかだったが、その背筋はまっすぐで、どこか“意識していないふり”のようにも見えた。

龍之介は一瞬だけ視線をそらし、それから無言で報告書を脇に抱え、ゆっくりと歩き出す。

その背を見送りながら、田島と落合は思わず目を見合わせた。

「……あれ、もしかして……」
「……うん、やっぱりそういうこと……?」

まるで、気づいてはいけない“気配”に触れたような、小さなざわめきがその場に残っていた。
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