秘めた恋は、焔よりも深く。

手放しと偶然の再会

「では、水曜日の18時にお願いできますか?」

「承知しました。では、水曜日に現地でお待ちしております」

電話を切ると、美咲はふっと息を吐き、心の中が少しだけ軽くなった。

(……ちゃんと、一歩ずつ進んでいこう)

小さな決断だったけれど、それが、自分の人生を少しだけ前へ動かしたような気がした。

日差しが差し込む日曜の午後。
クローゼットの扉を開けたまま、美咲は床に座り込んでいた。
数年前に買ったまま袖を通していないワンピース、
結婚していた頃の食器や、小さな置き時計、
それから……写真立てに入った、空っぽのフレーム。

(どうして、これを捨てられなかったんだろう)

きっと、何かの“証”みたいに思っていた。
でもそれはもう、必要ないのかもしれない。

「ありがとう。そして、さようなら」

そう心の中で告げながら、ひとつずつ箱に詰めていく。
気づけば部屋の中に、大きな段ボールがいくつも積みあがっていた。
昼過ぎ、段ボールを手に、近所のリサイクルショップへ。
予想以上にいろんなものが引き取ってもらえた。
控えめながらも思いがけない金額が手渡される。

(……このお金で)

ふと思い浮かんだのは、あのコーヒー店だった。
龍之介が「気に入ってもらってよかった」と言ってくれた、落ち着いた灯りのカウンター。
あの日、自分でも気づかぬうちに、少し心をほどいていた気がした。

「……行ってみようかな」

コーヒー店の扉を開けると、静かな音楽と深煎りの香りが迎えてくれた。
いつものように店員が「いらっしゃいませ」と優しく微笑む。
カウンター席に腰を下ろし、美咲は少しだけ肩の力を抜く。
手元には、たっぷりと湯気をたてるブラックコーヒー。

(黒瀬さん……今ごろ何してるんだろう)

ぼんやりと、そんなことを思った自分に気づき、胸の奥が少し熱くなった。

過去を手放すことで、
未来に少しだけ手を伸ばせる気がした。
たっぷりとホイップがのったウインナーコーヒーが、
小さな銀のトレイに載せられて運ばれてくる。

「ごゆっくりどうぞ」

店員の声に軽く会釈を返しながら、美咲はそっとカップを手に取った。
ふわりと漂う甘い香りに、心が少しやわらぐ。

(ブラックじゃなくて、今日はこっちにしてよかった)

甘さとほろ苦さが混ざり合う一口に、ふっと力が抜ける。
コーヒーを飲みながら、ぼんやりと外の景色を眺める。

(少しずつでいい。前に進めばいい)

そんなふうに自分に言い聞かせていたときだった。

――カラン。

扉のベルが静かに鳴る。

「いらっしゃいませ」

店員の声のあと、聞き慣れた低い声が、すぐ背後から重なる。

「……佐倉さん?」

驚いて振り返ると、そこには私服姿の黒瀬龍之介が立っていた。
グレーのカットソーにジャケットを羽織り、
気負いのない、それでもどこか品のある佇まい。

美咲は、一瞬言葉をなくした。
「……あ、こんにちは。偶然ですね」

「本当に。たまたま近くに来たんだ。ひと息つこうと思って……」

龍之介が視線を滑らせ、美咲の手元のカップに目を留める。
「ウインナーコーヒー、好きなんだ?」

「今日は……ちょっと甘いのが飲みたくなって」

美咲は少し照れたように笑った。

「隣、いい?」

「……はい」

カウンターの席に並んで腰掛けるふたり。
ウインナーコーヒーのクリームが、少しだけカップの縁に垂れていた。
美咲がナプキンでそっとそれを拭いながら、
(どうしてだろう)と、自分の胸のざわめきに気づく。

ただ、それが不快じゃないことも.....もう、美咲は知っていた。

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