秘めた恋は、焔よりも深く。

着物姿と静かなひととき

週末の昼下がり。
薄曇りの空に柔らかな光が差す午後、美咲は久しぶりに和装に袖を通していた。
会場に一歩足を踏み入れた瞬間、ふわりと季節の香りが鼻先をくすぐった。
生け花の作品が並ぶ静謐な空間。そこには凛とした空気が流れていて、普段とは違う時の速度が感じられる。

美咲は、淡い藤色の色無地に、やわらかな銀糸が織り込まれた帯を締めていた。
茶道の先生に誘われて足を運んだ日本橋の展示会は、久しぶりの着物姿に心も背筋も自然と整う。

花器と季節の草花が織りなすひとつひとつの表現に、目を細めながら歩いていたそのとき。
ふと、視線を感じて振り向いた。

「……佐倉さん?」

思いがけず聞こえた声に、美咲の目が見開かれた。
「……松田専務?」

そこに立っていたのは、ノーネクタイながらも仕立ての良いグレーのスーツを纏った松田だった。
いつもより柔らかな表情で、美咲の姿に確かな驚きと、そして喜びをにじませている。

「まさか、こんなところでお会いできるとは」

「本当に……私も驚いています」

一瞬、言葉が詰まりかけた美咲だったが、松田の目に浮かぶ温かな光にふっと緊張が解ける。

「今日は娘の作品が展示されていまして。学生部門で入賞したんですよ」
そう言って、奥のほうを指し示す。
そこには、瑞々しい椿と枝物を組み合わせた若々しくも力強い作品が飾られていた。

「わあ……すてきですね。お嬢さん、綾香さんでしたよね? こんなに繊細な感性をお持ちなんですね」

「ありがとうございます。あの子も、今日この場で佐倉さんに褒めてもらえたら喜ぶでしょう」

美咲は少し照れながら微笑んだ。
松田のスーツの襟元から、ほのかに香る整った石鹸のような匂いが、近くにいることを意識させる。

「それにしても……お着物、よくお似合いです。美しさが目を引きました。思わず声をかけてしまいましたよ」

「……ありがとうございます」

頬がわずかに熱を持つのを、美咲は感じていた。
花と静けさに囲まれた空間での、思いがけない邂逅。

偶然、けれど、なぜかとても自然に感じられる。
そんな不思議な静けさが、ふたりの間に流れていた。

「お嬢さん、どちらにいらっしゃるんですか?」

そう尋ねると、松田は少し顔をほころばせた。
「はい、ちょうど受付の方に挨拶に行っています。……あ、戻ってきましたね」

会場の奥から、小柄で制服姿の少女が歩いてくる。
柔らかい茶髪をきちんと結い、気品ある立ち姿は、年齢よりも少し大人びて見えた。

「綾香」

松田の呼びかけに、少女が目を上げた。

「お父さん、どうかしたの?」

「こちら、佐倉さん。仕事でご一緒している方だ。今日、偶然来ていらしたんだよ」

「はじめまして。父がいつもお世話になっています」

綾香はそう言って、丁寧にお辞儀をした。
育ちの良さと礼儀正しさが自然ににじみ出る。

「こちらこそ、今日は素敵な作品を拝見できて嬉しかったです。おめでとうございます」

「ありがとうございます。……緊張してたけど、そう言っていただけると、すごく嬉しいです」

微笑む綾香に、美咲もつられてやわらかく笑う。

松田専務と綾香が展示コーナーへ戻ったのを見届けると、
美咲も茶道の先生のもとへと戻っていった。

華道の展示会の後、美咲は会場を後にしようとしたところ、ふと声をかけられた。
振り向くと、そこには松田専務が立っていた。
彼の落ち着いた笑顔が、美咲に少しの驚きとともに心地よい安堵感を与える。

「せっかくなので、少しだけ時間をいただけませんか。コーヒーを一杯だけ。」
松田専務は穏やかに微笑んだ。その目には、どこか温かさを感じさせるものがあった。

美咲は一瞬、その誘いに躊躇した。
仕事で何度も顔を合わせているとはいえ、プライベートで二人きりになるのは、少しだけ不安な気持ちがあったからだ。
しかし、松田専務の穏やかな物腰と、無理のない提案に、自然と答えが浮かんだ。

「実は、あそこのカフェのチーズケーキが絶品で、ザッハトルテもとても美味しいんですよ。」

「それなら、少しだけ……」
美咲は改めて頷き、松田専務の後について歩き出した。

松田専務はその答えに満足そうに微笑むと、軽く手を引いて歩き出した。

その言葉に、美咲の心が少し和らぐ。
甘いものには目がない彼女にとって、松田専務の言葉は思わず引き寄せられるような魅力を持っていた。
ほんの少しの時間、たった一杯のコーヒーのために、彼女の心は少しだけ軽くなった気がした。

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