秘めた恋は、焔よりも深く。

偶然も積み重なれば、運命

水曜日。
定時になると、美咲はデスクの資料を手際よくまとめ、社内メールを確認してから席を立った。

「お疲れさまでした」
短く声をかけてエレベーターに乗り込むと、胸の奥に静かな緊張が灯っていた。

今日は、気になっていたマンションの内覧日。
数日前にネットで見つけ、管理会社に連絡を入れていた。
都心の喧騒からは少し離れているけれど、駅からは徒歩圏内。
周辺には静かな公園と、個人経営のベーカリーやカフェが点在しているという。

日が落ちる前に、と少し早足で現地へ向かうと、既に管理会社の担当者が待っていた。

「佐倉様ですね。本日はお越しいただきありがとうございます。どうぞ、こちらへ」

軽く会釈しながら建物へと案内される。

オートロックを抜け、エントランスの静けさと清潔感に、美咲はふと息をついた。
外観よりも中に入ってからの印象がずっと良い。
エレベーターで上階へと上がりながら、胸の高鳴りが少しずつ現実味を帯びていく。

「こちらが本日ご案内するお部屋です」

玄関を開けると、柔らかな光に満ちたリビングが広がった。
コンパクトながら、設えにはどこか品がある。床材もキッチンも、控えめな色合いなのに、どこか温かみがある。

「……」

ゆっくりと歩きながら、窓際に立った。
ちょうど西日が差し込み、レースカーテンがやわらかく揺れている。

ここでまた、新しい暮らしが始まるかもしれない。
そう思うと、ほんの少し背筋が伸びる気がした。

内覧を終えて、建物の前で軽く一礼をし、担当者と別れた美咲は、夕暮れの空を見上げた。
日が落ちかけた薄藍の空に、ビルの輪郭が静かに浮かぶ。
風が少し冷たくなってきて、着ていたジャケットの襟をそっと立てる。

「……うん、悪くなかったけど」

誰にともなく、ぽつりと声が漏れた。

新しく張り替えられたフローリング。使いやすそうなシステムキッチン。駅にも近い。条件はきっと、申し分ない。
でも…

「なんかちょっと……違うのよね」

言葉にできない“何か”が、胸の奥にひっかかっていた。
嫌だったわけじゃない。
むしろ整っていて、実用的で、住みやすそうだと思った。
けれど、自分があの部屋で朝を迎える姿や、コーヒーを淹れている姿が、どうしても浮かんでこなかった。

「どうしてだろう……」
バッグの中の資料を握りしめた指に、ほんの少しだけ力がこもる。

本当に求めている場所って、間取りでも駅の距離でもないのかもしれない。
帰りたいと思える空間。
心がすっとほどけて、「ああ、ここが私の居場所だ」と思える場所。

「……まだ、探せるよね」

そう言って小さく笑うと、美咲はまっすぐ駅へと歩き出した。
その足取りには、迷いよりも、次に出会える何かへの静かな期待が混じっていた。

帰りの電車は、思ったより空いていた。
すぐに見つかった窓際の席に腰を下ろすと、美咲は資料をバッグにしまい、ゆっくりと息を吐いた。
窓の外では、街の灯がにじんでいた。
どこかの商店街。古いアパートの灯り。横断歩道を渡る親子連れ。
どこにでもある風景なのに、不思議と心が惹かれた。

(……このまま、家に帰るのも、なんだか味気ない)

そう思って、ぼんやりと窓の外を眺めていたときだった。

「……あ、この駅……」

電車がスピードを落とし、ホームが近づいてくる。
降りる予定なんてなかったのに、気づけば身体がすっと立ち上がっていた。

ドアが開く。
誰もいないホームに、一歩、足を踏み出す。
知らない街。降りたことのない駅。
でも、なぜだろう.....心が静かに高鳴っていた。

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