秘めた恋は、焔よりも深く。

それはもう、偶然ではなくなる

金曜の夜、オフィスからの直帰を告げて取引先を後にした美咲は、手にした封筒をそっと確かめた。
中には、今日の打ち合わせで受け取った「会員制ホテルラウンジ」の招待券。
「お仕事お疲れさまでした。ぜひ今夜にでも」
と笑顔で渡されたそれを、なんとなく断りきれずに受け取ったのだ。

宿泊の予定などないが、滅多にない機会。
少し贅沢をしてもいい――そう思い、会社近くのホテルに足を運んだ。

柔らかな灯りと低く抑えられた音楽が流れるラウンジ。
カウンター席の一角に腰を下ろし、バーテンダーにおすすめのカクテルを注文する。

艶を帯びたレザートートを足元に置き、ふっと深呼吸をして肩の力を抜いた。

ドリンクが運ばれてくるのを待っていた、そのとき。
背後から、低くよく通る声が耳に届いた。

「……佐倉さん?」

振り返ると、そこには松田専務が立っていた。
ネクタイはきちんと締められ、仕立ての良いスーツは一切の皺もなく、淡い照明を受けて上質な艶を放っている。
社内で見る端正さはそのままに、落ち着きと威厳をまとった立ち姿。
まるでこの空間の一部であるかのように自然に溶け込んでいた。

「松田専務……」

専務はゆっくりと歩み寄り、彼女の隣に視線を落とす。
「こんなところで会うとは、奇遇ですね。」

「ええ……今日は取引先との打ち合わせが早めに終わりまして。いただいた招待券で、少し寄らせていただきました。」

「なるほど。」
専務は口元にわずかな笑みを浮かべ、空いている隣の席を指した。
「ここ、よろしいですか?」

美咲が軽くうなずくと、専務はバーテンダーに視線を向け、短く注文を告げた。
その横顔には、仕事中とはまた違う、大人の余裕が漂っている。

「こういう場所も、よく似合いますね。」
松田専務は微笑みながらそう言い、グラスの水滴を指でなぞるような仕草を見せた。

美咲は返す言葉を探しながら、グラスに視線を落とした。
金曜の夜、ホテルラウンジの静かな空気の中、思いがけない会話が始まろうとしていた。
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