東雲家の御曹司は、わさびちゃんに首ったけ
001 side 紀糸
───さかのぼる事、ひと月前……
「紀糸さん! 申し訳ありませんっ! 二度とこのような事がないように───」
「ああ、二度と無いだろうな。お前にはこの件から降りてもらう」
「そんなっ! 紀糸さんっ!」
自分に任せられた大事な仕事で不注意を起こす奴の仕事に対する意識レベルは知れている。あの程度のミスなら、いくらでも事前に防げたはずだ。
不注意を起こしたら、死ぬ、くらいの気持ちで業務にあたれない部下は必要ない。
「後任を行かせるから、引継ぎが済んだら元の業務に戻れ」
俺はその男の顔も見ずに、自分の部屋からの退室を促した。
「相変わらず冷たいねぇ……さすがは血も涙もないと有名な東雲家の御曹司だ」
「なんだ、忙しい。何か用か」
入れ替わるように現れたのは、東雲のグループの顧問弁護士のうちの一人で、俺の幼馴染でもある大路 晴人だった。
「久しぶりに紀糸くんのお見合いのご案内で参りましたよ───今回はなんと、あの神楽家のご令嬢だぁ」
「……懲りないな、あの人達も」
あの人達というのは、俺の両親だ。
「食品メーカー、薬品メーカー、出版社にあとはぁ……まぁ、名だたる企業のご令嬢達を泣かせてきたわけですが、今回はそうもいかないぞ」
「泣かせてなどいない、勝手に泣くんだ」
「大事に大事に甘やかされて育ったご令嬢は、お前みたいな冷たい男には免疫がないんだ。優しくしてやれよ。せめて見合いの日くらいは」
なぜ俺が見合い相手に気を使ってやる必要がある。俺との結婚で利を得るのは、向こうであり、俺ではない。
「その整った顔で、ほんの少しでもニコリとすれば次のステップにくらい進めるだろ」
「面白くもないのに笑えるか」
「愛想笑いって言葉知ってるか? いや、お前には無理か……笑う必要はない。せめて、その眉間のしわをやめて、代わりに口角を上げて目尻を下げろ」
人間、自分の顔をそんな自由自在にコントロールできるわけがない。
「とにかく、今回はこれまでのご令嬢達のように圧倒的にお前が優位と言うわけではないからな。歴史だけで言えば、あちらが古いし、うちとは全く別ルートで顔が利く」
「……」
「失礼な態度は許されないんだぞ」
「……」
ご立派なのは歴史と人脈だけで、隠居した現当主に変わって、現在舵を取っている神楽 義徳はただの好色家で無能だと聞く。
なぜそんな、衰退することが目に見えている神楽家との縁談を進めるのか、俺には理解できない。
「80を過ぎた当主からその座を明け渡してもらえない無能のおっさんの娘など、会うだけ無駄だ。見合いをしている時間を仕事に費やした方がよほど生産性がある」
「はぁ……駄目だこりゃ。とにかく、次の土曜日にいつもの場所に10時だからな、遅れずに行けよ。俺は伝えたからな!」
「……」
人のデスクに見合い相手の釣り書きを開いたまま、晴人は手をひらひらとさせながら出て行った。
別に親に反抗する気はない。
これまで見合いした相手と、二度顔を合わせることなく終わっているのも、別にわざとでもない。
ただ俺は聞かれたことに対して思ったことを口にしているだけであって、結果的に相手の女が泣いて親に言いつけているだけだ。
いや、頬を叩かれた時もあったな。
「はぁ──……ったく……結婚になんの意味があるんだか……」
俺は晴人の置いて行った釣り書きに目を通すこともなく、苛立ちから少し手荒にバンッと閉じ、デスクの引き出しに投げ入れた。