東雲家の御曹司は、わさびちゃんに首ったけ
006 side 紀糸
わさびは俺の目の前で、とんでもない食いっぷりを見せた。大食い番組を見ている気分で、目が離せなかった。
目の前にあったはずの大量の食事が、あの細い身体の一体どこに消えたのか不思議だったが、彼女の腹を見れば、一目瞭然だ。
ポッコリと膨れ上がったその腹は、妊婦のようだった。
この後は、わさびが着物を着替えている間に運転手に聞いておいたデザートの店に行く予定にしていたが、もう無理だろう、と思った。
しかし、別腹だというわさび。まだ食うのか……
俺はわさびが、未知の生物のように思えた。
定食屋であれだけの炭水化物を食べにもかかわらず、さらにパンケーキという炭水化物を二皿も平らげるわさび。
女子高生の胃袋の若さには、驚かされるばかりだ。
膨れ上がった腹で、連れ回すことも出来ず、俺はそのまままっすぐ病院まで送り届けた。
しかし、病院を出てすぐ、車の足元に草履が片方落ちていることに気付いた。
「悪い、病院に戻ってくれ。忘れものだ」
「かしこまりました」
わさびが入っていった、夜間・休日出入口の前に着き、俺はわさびのスマホに電話をかける。
ポケットに入れていたはずだから、すぐに気付くだろう。
『もしもし』
しかし、電話口から聞こえてきた声は、だいぶ渋かった。
電話だと声が別人のような人もいるが、今回は本当に別人が出たようだ。
かけ間違えたか、と思い耳から離して画面を確認するも、わさびで間違いない。
『もしもし! 聞こえんのか? 東雲の孫なんだろ?』
そのひと言で、電話口の人物が誰であるか理解した。
「はい、東雲 創一郎の孫の紀糸と申します。神楽家のご当主でいらっしゃいますね?」
『どうしてお前が、山葵と連絡をとっているんだ!』
俺の質問には答える気はなさそうだが、間違いない。わさびのお爺だ。
わさびは、俺とのことを知られたら叱られると言っていた。
だが、婚約自体正式に結ばれた以上、当主に隠し通せるものではない。
「わさびさんは、そこにいらっしゃいますか? 私は今、わさびさんのいる病院の前にいます。よろしければ、きちんとご説明させて頂きますので、神楽家のご当主との面会の許可を頂けないでしょうか」
『病院の前にいるだと? ……いいだろう、許可する。山葵を迎えにやるから、一緒に上がってこい───(ティロン)……』
「……感謝いたします」
電話は一方的に切られた。
俺は左手に草履、右手にスマホを持ち、わさびを待った。
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数分後、ものすごく暗い表情のわさびが俺を迎えに来た。
「大丈夫か? 叱られたのか?」
「……まだです」
「そうか、そもそもお前は悪くない。悪いのは、神楽 義徳だ。俺が説明するから」
「……絶対に……お爺を興奮させないでください……死んじゃう……」
今にも泣きだしそうな震える声で、俺に頼んでくる彼女は、先ほどまでとは別人のようだ。
しかし、興奮させるなと言われても、なかなか難しい。とはいえ、この状況で彼女の不安をあおるようなことは言えない。
「わかった、気を付ける」
そのまま特別室へと案内され、俺は初めて神楽家の当主と対峙した。
「初めまして、東雲 紀糸と申します。現在、東雲ホールディングスのCEOを務めております。こんな形ではありますが、お会いできて光栄です」
「神楽 喜八だ。このままで失礼する。早速だが、最初から説明してもらおうか。いつどこで山葵と東雲の御曹司が知り合ったのか、こっそりスマホを持たせる仲になったのか───何を企んでいるのか」
ベッドのリクライニングで身体を起こした状態のまま、神楽の当主は話し始め、無駄な会話は不要、とばかりに説明を求めた。
興奮と同じように、イライラさせることも良くないと思い、俺は言われたとおりに、簡潔にわかりやすく説明する。
「────山葵、ここまでに間違いはないか?」
「うん、ない」
わさびに確認を取った後、当主は大きなため息をつき、横にいる男を見た。
「夏目、どういうことだ。お前が義徳に言われてわさびを連れ出したんだろう」
「申し訳ございません……詳細は知らされず、呼べと言われ……」
当主は、夏目と呼ばれる付き人らしき男の事情もわかっているのか、それ以上は責めようとしなかった。もしかすると、責める気力も無いのかもしれない。
神楽の当主の顔は、写真でしか見たことが無かったが、そのイメージと現在の目の前の本人の姿は大きく異なっている。
やせ細り、今にもその灯が消えてしまいそうな儚さがあった。
わさびが心配する理由もわかった気がする。
「お爺、あのね、わさびは結婚なんてしないよ。安心して。東雲 紀糸には、高校を卒業するまでの盾になってもらってるだけ。今日だってね、夢香に九条の弟とお見合いさせられてたところを、東雲 紀糸が助けてくれたの。着物を持ってたのは、それが理由……黙っててごめんね、お爺……」
お爺の前では、わさびはずいぶんと子供らしく、幼くなるようだ。高校三年生にしては、幼過ぎると思うが。
「そうだ、これ忘れ物だ」
俺は、手に持っていた片方の草履を、わさびに手渡した。
「あ、すみません」
そんな俺達のやり取りを見て、当主が言った。
「山葵、少し夏目と一緒に席を外してくれんか。東雲くんと二人で話がある」
「お爺っ……わかった……行こう、夏目さん」
「は、はい」
「お爺、興奮したら駄目だからね」
「わかってるさ」
わさびは、後ろ髪を引かれるようにではあったが、大人しく病室を出て行った。