東雲家の御曹司は、わさびちゃんに首ったけ
008 side 紀糸
「相変わらずいい馬だな……」
「はい、シノノメ・ホース目当てでいらっしゃるお客様も少なくないですよ」
当時、祖父に『お前と共に成長する相手だ、好きな馬を選べ』と言われて、この馬がいい、と、見た目だけで選んだだけの牡馬だ。
競走馬としてのデビュー戦は見に行ったが、ボロ負けだったこともあり、それ以来気にかけてやれなかった。馬からすれば、変な名前をつけた挙げ句放置とは、酷い飼い主だっただろう。
「乗れるか?」
「どうでしょう……今、シノノメ・ホースに乗れるのは丘の上のノーザンのオーナーさんだけなんですわ」
「丘の上? ……神楽 喜八氏がオーナーだった所か?」
「ええ。あ、確かシノノメ・ホースも最初はそちらをご希望でしたよね。今なら凄く施設を拡大したので、受け入れてくれると思いますよ? 私からオーナーさんに話してみましょうか?」
そこはわさびが相続した赤字経営の施設だったはずだ。それが施設を拡大したとは、どういう事だ。
わさびの30億は俺の手元にある。誰がそんな金を……
「……ああ、当時は一杯だと断られたんだ……この後寄ってみる。よさそうならば自分で話しをするから大丈夫だ」
「そうですか、ウチも空き待ちの馬がいるもんで、気にせず移してくださいね」
「わかった」
俺はタクシーを呼び、丘の上のノーザン・メモリアルパークに向かった。
シノノメ・ホースに乗れる唯一のオーナーとやらには大変興味がある。確か、あそこは調教師を引退した夫婦が経営を任されているんだったな。
途中、一台のハイクラスミニバンとすれ違った。車にはノーザン・メモリアルパークのロゴが入っている。
若い女性が運転していたようだったが、ノーザンの人間だろうか……車を見るかぎりでは、経営状況は悪くないのかもしれない。
その後、施設を見て驚いた。
動物のいる場所には思えないほどに清潔感があり、綺麗な施設だった。
まるで大型のテーマパークのようだ。
カフェなども併設してあり、少し先にはさらに何かを建設中のようだった。
「お客さんですか?」
「ああ、オーナーはいるか?」
警備員のような男に声をかけられる。
「あちゃー、オーナーはさっきお客様を送りにでちゃったなぁ……代わりに施設長を呼びますね」
オーナーが客を送るとは一体……人手が足りないようには見えないが……
そこで俺は思い出した。
もしかして、さっきすれ違ったあのミニバンの運転手がオーナーだろうか。
若い女……オーナーが若い女……シノノメ・ホースに乗れる唯一……
なぜか動悸がし始めた。
施設長は、シノノメ・ホースほどの名馬となると、オーナーに確認しないと、というので出直す事にした。これが仕事ならば、俺が自分で出直す事なと、未だかつてない。
そして数時間後……
「失礼、オーナーは戻られただろうか」
「キャッ! イケメン! か、確認してまいります! おかけになってお待ちください!」
思っている事が全て口に出ていた……カフェの店員に取り次ぎを頼み、待つことに。
夕方近くだからか、客はほとんどいない。
窓の奥に見える太平洋と、その手前にはのんびりと過ごす馬の姿。ゆったりとしたBGMの流れるその空間は、難しい事を考える事はやめよう、そう思いたくなる。
「お待たせしました。オーナーの……わさび、です」
背後から遠慮がちに聞こえてきた、懐かしさを感じるその声に、俺は思わず立ち上がり振り向いた。
「───っわさび、なのか?」
「はい、わさびです。久しぶりですね、東雲 紀糸」
以前より長く伸びた髪を緩く結い、スラリと伸びた手脚に、すっぴんと見間違うほどの薄化粧でも、美しく整ったその顔。
俺にとってはたった2年という月日が、以前は少し大人びた女子高生だった彼女を、完全に大人の女性へと変えてしまったらしい。
「っ……───大人になったな」
「わさびは前も子供ではありませんでした」
以前と変わらない揚げ足取りのような、この返し。懐かしい。
「アイスコーヒーでいいですか?」
「ああ」
カウンターの中へ入り、自らの手で俺のアイスコーヒーを淹れてくれるわさび。
そしてもう一つ、作って持ってきたのは───……
「やっぱりオレンジジュースなんだな」
「フレッシュで美味しいですよ」
オレンジジュースには並々ならぬ思いがあった以前のわさび。今でもそれは変わらないのかもしれない。
「それで、シノノメ・ホースをこちらに移したいとか」
「ああ、元々はここに預けたかったんだ。今なら空きが有るんだろ?」
ストローをくるくるまわし、オレンジジュースを混ぜる仕草すら、あの頃よりも色気を感じる。
「はい。シノノメ・ホースはノーザンに任せてください。デロデロに甘やかします」
「アイツが羨ましいな。わさびに任せる。アイツに乗れる唯一らしいじゃないか」
「……そのおしゃべりさんは、滝本さんですね?」
「ああ、シノノメ・ホースを担当してくれている人から聞いた」
「すみません、勝手に乗ってしまいました」
「かまわない、それより今度乗る時は俺にも見せてくれ」
見たい、わさびの乗馬する姿を。俺の馬に乗って駆ける姿を。
「……わかりました。では転居の際はわさびが乗って移します」
「いつ頃になる? 8月に入るか?」
「シノノメ・ホースは気難しい子なので、単独房がいいと思います。少し高くなりますが大丈夫ですか?」
「ああ、問題ない。アイツは30億も稼いでくれたからな、快適に過ごさせてやりたい」
「さすがは東雲の御曹司。それなら、いつでも大丈夫です」
「来週末は? 土曜日がいいんだが」
「わかりました、調整しておきます」
「……」
「……」
打ち合わせが終わってしまった。
「わさび、今はさすがに自分のスマホを持ってるよな?」
「はい、まわりがうるさいので。仕事と兼用ですが」
まわりに言われなければ今でもいらないのか。わさびらしいな。
「番号、教えてくれないか?」
「嫌です、東京の人には教えません」
いっそ清々しいほどの即答だった。考える余地すらないのか。だが、理由が納得がいかない。
「……なら、北海道にマンションを買う。なんなら、住民票も移す」
───晴人が、涼しい所に本社を移転などと言っていたが、前向きに考えてみるかな。
「意味がわかりません。東雲 紀糸は女子高生を付け回していたあの頃と変わりませんね」
だから、その言い方は語弊があるし、聞く人が誤解する、と言いたい所だが……
「そうだ、俺はあの時から何も変わってない。わさび、フルネームで呼ぶな、前みたいに名前で呼んでくれ。それに、番号も教えろ」
「もう婚約者ではないので、名前では呼べません。番号も教えません」
「……なら、もう一度俺と婚約しよう」
「……意味がわかりません。せっかく、当初の目的通りに破談にできたのに、何を言っているのですか」
そういえば、わさびはなぜ先ほどから俺の目を見ないのか。
───少し、しつこかったか……
「わかった、今日は帰るよ───また来週な」
「はい、東雲様とシノノメ・ホースを歓迎いたします」
───俺も一応客だが、わさびには送ってはもらえなかった。