東雲家の御曹司は、わさびちゃんに首ったけ
009 side わさび
「わさびちゃん、東雲さんとカフェで話しなんかするから……凄い噂だよ」
「噂と言えるのでしょうか……わさびの顔をみつけると、皆からしつこく聞かれて困っています」
東雲 紀糸との会話が聞こえたらしいカフェ担当の杏奈ちゃんが、あちこちに言いふらしているらしい。
“オーナーの連絡先ゲットするために、北海道にマンション買うとか言ってた”
“オーナーに、名前を呼んでもらうために、もう一度婚約しようとか言ってた”
その結果、“シノノメ・ホースの元馬主はオーナーに首ったけ”との噂で持ちきりになっている。
土曜日までに噂が鎮火するとは思えない。
さすがに本人に何かを言う事はないと思うが、人間は視線やヒソヒソ話でなんとなく、察してしまうものだ。
わさびは今、樋浦弁護士と一緒に住んでいる。
一緒に住んでいると言っても、恋愛などのそれではない。わさびの生活能力のなさを目の当たりにした圭介が、勝手に世話をしに来始めた結果だ。
わさびは料理も掃除も出来ない。
今は施設内に完成したばかりの社員寮に隣接する、これまた完成したばかりの社宅の一つで生活している。
施設の皆もそれを知っているからこそ、東雲 紀糸との噂が、三角関係みたいで余計に面白いのだと思う。
「圭介は、変な事言われてないですか?」
「ん? 変な事って?」
「その……三角関係だとか……」
「ああ、言われた言われた」
「すみません……」
「まぁ、僕がわさびちゃんを追いかけてきて、一緒に仕事をして、プライベートも世話をやいてれば、当然そう思われるよね。大丈夫だよ」
圭介は見た目は東雲 紀糸と同じくらいに見えるが、実は38歳アラフォーだった。
わさびより18歳もお兄さんなのだ。
下手するとお父さんでもあり得る年の差だったりする。
だから圭介は、わさびを娘や妹くらいにしか思っていない。だからわさびも最近はお爺みたいに甘えてしまう。
「わさびちゃんは、どう思ってるの? 東雲さんの事」
「わさびは東雲 紀糸は嫌いではありません。お爺の大切な神楽を助けてくれました」
「男性としては?」
「……男性として? といいますと」
「ははは、そこからか」
圭介はわさびに、“恋愛”の好きと“親愛、友愛、博愛”の好きとの違いを丁寧に教えてくれた。
わさびにとってはどれも似たり寄ったりだったが、決定的な違いが最後に出てきた。
「わさびちゃんは、買収のために行方をくらませる必要がなかったら、あのまま東雲さんと結婚してもいいと思ってた?」
わさびはタラレバの話しをするのは苦手だ。
「……難しいです。東雲 紀糸とは最初から神楽を買収してもらうつもりでした」
そのためにわさびは、婚約を白紙にも破談にもされないようにして、いくつかの条件も飲んだのだ。
「そっか、じゃぁ、質問を変えようか。わさびちゃんは、東雲さんと一緒に生活してた時、楽しかった? それとも嫌だった? 早く出て行きたかった?」
「それの答えは簡単です。楽しかったです。紀糸は、初めての場所に沢山連れて行ってくれました。美味しいものを沢山食べさせてくれました。映画も一緒に見ました。お爺みたいに早く寝なさいとも言わずに一晩中一緒に見てくれました」
わさびはテーマパークも水族館も初めて行った。競輪もボートレースも楽しかった。相撲も、なかなか面白かった。
「そっか、じゃぁ、結婚したらそんな楽しい生活が続くとしたら、彼と結婚しても良かった? もちろん、現実は違うだろうけどね」
「……楽しかったので、答えは、はい、です……」
「じゃ、これは少し難しいかもしれないけど、わさびちゃんが楽しかった生活を東雲さんが別の女性としている所を想像してみて?」
───紀糸がわさびじゃない人と……
「でも……紀糸は、わさびじゃない役に立つ嫁と結婚します、東雲の嫁にふさわしい嫁を見繕うと紀糸の父親は思ってました」
自分で言ったその言葉に、なんだか胸の辺りがチクンとした。
「圭介……わさびは今、ここがチクンと痛くなりました」
胸に手をあて、圭介に助けを求める。
「そっか、そのチクンは、わさびちゃんの心が“嫌だ”って思った痛みだよ」
お爺と圭介の好きはたぶん同じ好き。
でも、紀糸の好きは……なんだか少し違う。
「僕もそんなに経験豊富ではないけど、きっと、“恋愛の好き”じゃなかったら、そのチクンは感じないと思うよ。わさびちゃんは東雲さんが、他の女性に取られるみたいで嫌なんだよ、そうなると、もう大好きな人だね」
───わさびの紀糸に対する好きは、恋愛の好きで、チクンとしたら、大好き……
「それならば、わさびは紀糸が大好きという事になります」
「そうだね。ほら、答えが出た」
わさびの好きは恋愛の好き、チクンは大好きの証。
「わさびは紀糸が大好きのようです。でもチクンは嫌いです」
紀糸への好きが、恋愛の好きだというのは理解できたが、大好きだと胸が痛むのなら、それは少々考えものだ。
「ははは、それなら、チクンを回避するいい方法があるよ」
───やはり、ありましたか。
あると思った。そうでなければ、みんながあんなに色恋に夢中になるはずがない。
「教えてください、お願いします圭介」
「それはね───」
……圭介が教えてくれたチクンの回避は、今のわさびには少し難しかった。