夫の心に住んでいるのは私以外の女性でした 〜さよならは私からいたしますのでご安心下さい〜

第19話


「申し訳ありませんでした」

腰を直角に折り曲げて、イライジャが私に謝っている。私はそんな時でも隙のないイライジャに苦笑した。

「貴方のせいじゃないわ。自分の管理不足」

執務室で立ち眩みがしてしゃがみ込んでしまった私は、午後からの予定をイライジャに全てキャンセルさせられた。

直ぐに目眩も治まり午後も引き続き仕事をすると言ってみたのだけれど、有無を言わさずに寝台へと直行させられた。


「医者には連絡しましたので」

「大袈裟よ!ちょっと寝不足なだけだから、ゆっくり寝れば直ぐに元気になるわ」

此処に戻って来てもう半月。
イライジャは自分が仕事で無理をさせたとでも思っているのか、さっきからずっと恐縮してしまっている様だった。


「いえ。寝不足だけの問題ではないと思っているので」

「どういう事?本人がそう言っているのに……」

「……食事もあまり召し上がっていませんよね?それに顔色も悪い」

「少し疲れが溜まっただけ。慣れないことをするとダメね。力が入りすぎちゃって」

「それは私が……」

「ううん。自分の力不足。イライジャがイライラするのは仕方ないもの」

「私はイライラしてなど……!」

珍しくイライジャの声が大きくなる。イライジャはそんな自分に驚いたのか、直ぐにいつも通りの冷静な彼に戻った。

「大きな声を出してすみません。私は別にキルステン様にイライラしているわけではなく……いえ、言い訳の様に聞こえますね。とにかく、診察はしていただきましょう。もっと私が早くに気づいていれば……可能性を考えなかった私のミスです」

何故かイライジャは思い詰めた様に険しい顔でそう言った。





「あら?いつもの主治医の先生ではないのね?」

医者が来たと聞いて、母も診て貰っているうちの主治医のおじいちゃん先生が入ってくるとばかり思っていた私は、若い女医の姿に目を丸くした。


「はじめまして、レジーナと申します。執事のイライジャさんに依頼されて参りました。
今日は私が診察をさせていただきますね」

彼女は金髪のおさげを揺らし、丸眼鏡の奥のくりっとした瞳をキラキラとさせながら笑顔を見せると、私につかつかと近寄っていきなりこう訊いた。


「失礼ですが、最後に月のものがあったのはいつですか?」



「どうして休んでいないんですか?」

寝台の上で上半身を起こしたまま、本を広げていた私に、イライジャは少し怒った様に言った。

「お父様のお部屋で面白そうな本を見つけてしまって……」

そう言った私にツカツカとイライジャは近寄ると、

「本は上下逆さまでは読めませんよ」
と私の手から本を引き抜き、上下を戻してから、また私の手元に戻した。

どうも本を読んでいた……という嘘は直ぐにバレてしまっていた様だ。


先ほどのレジーナという女医は一通り診察した後、

『妊娠している可能性は非常に高いと思われます。ご気分が悪かったのは悪阻。食欲がないのもそれが関係していると思います。嘔吐はない様なので脱水にはなっていないですが、食事が摂れなかった事による貧血が今日の目眩の原因ですね。貧血に効く食べ物や飲み物のレシピをお伝えしますので、少しずつ治していきましょう。また来週診察に伺います』
と笑顔で言った。






「気分が悪いのは、ジョージの顔を見ているからだと思ったわ」
少し戯けた様に言ったつもりだった。

「そんな泣きそうな顔で言っても冗談には聞こえません」

イライジャの言葉に、本の上に涙の雫がポトリと溢れた。

「どうして今なのかしら?神様って意地悪だわ」

私は指で涙を拭う。俯いた私にはイライジャの表情を窺う事は出来なかった。

すると、まるでガラス細工に触れるかの様な手つきでそっと私の頭を撫でる手があった。

「その子は貴女を選んでやって来たのです。きっと選ばれた理由があるはずです」

私の頭に触れるその手はとても温かくて、そして少し震えていた。


私はその温かさに心までじんわりと温まる気がした。

「あの女医さんを選んだのはイライジャね。私が身籠っているって思っていたの?」

彼は私の頭を撫でながら、答えた。

「今日……キルステン様が倒れるまではその可能性を考えていませんでした。良く考えれば判ったことなのに……私の不徳の致すところです」

「倒れたなんて大袈裟ね。それに私自身その可能性を全く考えていなかったんですもの、イライジャが謝る事ではないわ」

三年間、何度も何度も神に願った。ジョージの子どもが欲しい……と。だけど神様はそれに応えてはくれなかった。私自身、何処か諦めた気持ちがあったのも事実だ。しかし……まさか離縁した今、子を授かるとは。

「……不安ですか?」

「だって……父親がいないのよ?」


「父親が居たからといって幸せとは限りません。それに此処には皆居るじゃありませんか」

「でも……」

「戻りたいですか?……彼の元に」

イライジャのその問に、私は否定の意味を込めて力いっぱい首を横に振った。

「それはないわ。……それだけは考えられない」

「ならば私が全力でお二人をお守りします」

イライジャの力強い言葉に、私はハッとした。
あんなに切望していた子どもを授かったのに、何故私はこんなにメソメソしているのだろう。この子は私の子どもだ。私が幸せにしてあげれば良い。

「……そうね。私もこの子を守れる程に強くなるわ」

私は何とか笑顔を作った。正直不安は拭えないが、この小さな命は既に私のお腹に宿っている。

「さぁ……今日はもう休んで下さい」
そう言ってイライジャの手は私の頭を離れた。その事が酷く心細く思えたが、私はもう一度濡れた頬を拭うと、

「ええ。おやすみなさい」
と寝台へ潜り込んだ。

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