夫の心に住んでいるのは私以外の女性でした 〜さよならは私からいたしますのでご安心下さい〜
第20話
私が日常に戻れたのは、あれから三日後の事だった。
「随分と面会予定をキャンセルしてしまったわ」
「先方は理解して下さっています」
「でも……なるべく早く新しい予定を組まなくてはね」
そう言った私にイライジャが一枚の紙を差し出した。
「差し出がましいとは思いましたが、キャンセルした面会を今後の事も考えて、新たな予定を組み直してみました。ご確認下さい」
「仕事が早いわね」
「それと……私に出来る部分はこの三日で仕上げておきました。あとはキルステン様のサインを」
「あら?陛下から私が領主代理になる許可が降りたの?」
先日までは最後にサインをするのは母の仕事だった。母の体調も少し上向きになってきたが、サインする事すら難しい日もあって、随分と書類が溜まっていたのだが。
「実は……」
イライジャはもう一枚紙を私の前に差し出した。
「これは……?」
「陛下は十一年も伯爵不在なのは問題だとお考えです。キルステン様がこのアンドレイニ伯爵家に戻られた今、キルステン様を伯爵とする事が妥当だと」
「そんな!サミュエルが次期当主よ!私はサミュエルからこの家を奪うつもりはない!」
「分かっております。陛下もそこは十分にご理解されております。ですのでサミュエル様が成人をされた時、改めて伯爵をサミュエル様へ譲位する事も許可する……と、そう書かれております」
それでも私の気持ちは晴れなかった。
「キルステン様?」
イライジャが俯き加減だった私を窺う様に名を呼んだ。
「今は……私のお腹に子どもが居るわ。まるで私がここを乗っ取りたくて戻って来たみたいに思われないかしら?」
「ここにそんな考えを持った者は一人もおりません。奥様もキルステン様のお気持ちはきちんと理解して下さっています」
私は昨晩、自分の妊娠を母に報告に行った時の事を思い出していた。正直、母は最初戸惑った様子だった。
『妊娠……?キルステンそれは……』
『私もまさか妊娠しているとは思っていなかったの。流石に分かっていたら離縁は出来なかったわ。申し出る事すら不可能だったでしょうし』
私の顔を見て母は言った。
『もしかして……子が出来なかった事が離縁の理由ではないの?』
私は未だに寝台から起きる事の出来ていない母の事を慮った。ジョージとグラディスさんとの事を正直に言ってしまって良いのか?母に衝撃を与えたくはない。
答えまでにかかった『間』が、結局は肯定を表していた。
『キルステン、私は貴女の母親よ。貴女が苦しんでいるのならば一緒に分けて欲しいの』
『お母様……』
私はその母に言葉を選ぶように、
『ジョージの心にはずっと昔から他の女性が住んでいたの。その女性が離縁して戻って来てね……』
そこまでを口に出すと、母は判ったとでも言う様に大きく頷いて私に向かって手を広げた。私はその腕の中へと吸い寄せられる。
そんな私をしっかりと母は抱きしめた。
『もう分かったわ。キルステン……ならばガーフィールド家に戻るつもりはないのね?』
『もちろんよ。この子は私の子。他の誰の子でもないわ』
私の言葉に母は、
『その子はアンドレイニ家の子よ。皆で大切に育てましょう』
と私の背中を何度も撫でてくれた。
私が昨晩の事に思いを巡らせていると、イライジャが言った。
「次期当主の指名権はキルステン様にあります。安心してください」
「……そうね。今から悩んでいても仕方ないし」
私の言葉にイライジャも頷いた。
「では、ここにサインを。これでキルステン様がアンドレイニ伯爵となります」
私は大きく息を吐きだしてペンを取った。
私がアンドレイニ伯爵としての第一歩を踏み出した瞬間だった。
「伯爵」
「やめて。キルステンで良いわ」
「ではキルステン様。今日の午後は隣国のファーナビー侯爵との面会です」
「侯爵はうちの鉱物の取引希望ね。でも……父はあまり金儲けには興味がなかった筈なのに、こうして仕事をしてみると、取引先を拡大させているし、とても積極的にその……お金儲けをしている様に見えるのだけど……」
私の言葉にイライジャは分厚く綴られた書類を置いた。
「説明しなくてはと思いながら、後回しになってしまっていましたが、こちらが伯爵……いえ、前伯爵様の成し遂げようとなさっていた事です」
私はその分厚い書類を一枚、一枚捲る。
「これが……お父様の目指していた事?」
「はい。旦那様はこの領地を王都に負けず劣らず領民の住みやすい場所にする事をお望みでした。この領地に居れば、全てが揃う。病院、学校、教会。店も充実させてより良い環境を造る。その為にはお金が必要ですから」
「どうして急に……?」
「それは……多分奥様のご病気が発端であったと思われます。医者はいましたが、病院としての機能はどうしても王都と見劣りしてしまいます。
それにここの領民は必然的に鉱員が多くなりますが、怪我をした時、ここでは治療できない事も一度や二度ではありませんでした。その現状を打開するべく、旦那様は先ず病院を建て直す事から始めました。正直、アンドレイニ伯爵領の病院は王都にある王立病院に勝るとも劣りません」
「ではこの前のジェーンも……?」
「はい。わが領の病院の噂を聞きつけ働きたいとわざわざやって来た若者です。とても優秀な医者が此処には集まって来ています。それは薬草を始め研究にも力を入れており、費用も潤沢に用意しているからです」
「学校まで……」
「平民の子どもは、たとえ王都でも教育を受ける機会が少ない。しかも文字の読み書きや簡単な計算が出来る程度です。旦那様は平民でもなるべく高い水準の教育を受ける機会を増やすべく学校の建設を目指しておいででした……その志半ばではありましたが」
イライジャの顔がほんの少し歪む。父の死を悼んでいるのだろう。彼の人間らしさが珍しく垣間見えた瞬間だった。
「ならば私が頑張らなくてはね。お父様の目指した領地に……近づけなければ」
私の言葉にイライジャは、
「お身体を大切に。無理は禁物です」
と釘を刺す事を忘れなかった。
「それでは、今後よろしくお願いします」
「はい。良い商談になって安心しました。我が国では女性の当主は居ませんのでね。少し心配ではありましたが……」
何人目だろう。私がアンドレイニ伯爵を名乗ると、不安そうな顔をした取引き相手は。
「安心していただけましたか?」
「ええ、もちろん!!これだけしっかりとした契約書であれば、お互いにとって良い取引きになる事は間違いありませんよ。わざわざ出向いて良かったですよ」
朗らかに笑って帰る取引相手を見送った後、私は自分の後ろに控えていたイライジャへと声を掛ける。
「今回も貴方のお陰で、うまくいったわ。あの伯爵が好きな葉巻もお土産として用意出来たし」
「下調べは私の仕事ですから。それよりキルステン様、休憩する時間です」
「今のうちにさっきの要点を纏めなければ。私、貴方と違って直ぐに忘れてしまうもの」
「それは私がやっておきます。それよりも休憩を」
「でも……まだ疲れてな……」
「休憩を」
イライジャは私の体調管理にも厳しかった。