夫の心に住んでいるのは私以外の女性でした 〜さよならは私からいたしますのでご安心下さい〜

第37話

「前に母が亡くなった事は言ったと思うのですが、母が亡くなったその後、私は乳母に育てられました」

『乳母』という言葉に私は反応する。

「乳母って……貴方、もしかして貴族なの?」

「まぁ、一応。乳母は優しい女性でしたが、父も兄弟達も私に冷たく、私の存在は無いものと同然でした」

イライジャに兄弟が居た事も初耳だ。イライジャを産んで直ぐに亡くなった……という事はイライジャは末っ子という事なのだろう。


「それは……何故?」

私の問いにイライジャは唇を噛んだ。言いにくい事の様だ。私が無理に答えなくて良いと言うと、イライジャはまた話し始めた。

「乳母とは十歳まで一緒に居たのですが……色々あって、私は家を出ました。乳母ともその時離れ離れに」

「十歳?まだ子どもだわ。まさか……」

「そこから、私は一人で生きてきました」

衝撃だった。わずか十歳の子どもが一人で?しかも元は貴族。彼もそれなりの生活をしていたはずなのに……。

「キルステン様、過去のことです。貴女が泣きそうな顔をする必要はありませんよ」

私は余程辛そうな顔をしていたようだ。
イライジャにそう言われても、幼い頃の彼を思うと胸が痛む。彼が家を出る事になったきっかけは何だったのだろう。気になるが、イライジャが話したくない事なら、無理に訊く必要はない。

「どうやって生きて?」

「私は十歳の割には背も高く、少し大人びた風貌でしたから、歳を偽って仕事を。しかし、どう見えたって中身は十歳の子どもです。上手く出来ない事も多かった。上手くやるには人の機嫌を読む必要がありました。……ついその名残りで」

「苦労……したのね」

「『生きる』と約束したので。その乳母と。がむしゃらでした」

私は立ち上がると、イライジャに近づいた。

「キルステン様?」

自分の横に立つ私をほんの少し見上げるイライジャの頭を私はそっと抱き締めた。

「泣いても良いのよ?」
気付いてしまった。彼が大切にしていた人と永遠の別れをしたのだと。彼に優しかった乳母はもうこの世に居ないのだろう。

「泣きませんよ」

「でも子どもの貴方が泣いてるわ」

「私はもう大人ですよ」

イライジャはちゃんと泣けなかったのだ、子どもの頃に。

「大人ってつまらないわね。泣きたい時に泣けないなんて」

イライジャは私の腰に両手を回すと、今度は私を抱き締めた。

「貴女が居るから私はもう平気です」

イライジャは私の腰から手を離して立ち上がる。私も彼を離した。背の高いイライジャを私が見上げる。

「私は貴女の大切な人の代わりになれているのかしら?」

「貴女は誰の代わりでもありません。キルステン様はキルステン様。そして貴女の代わりも誰にも出来ません」

イライジャはそう言うと私を抱き締めた。彼の胸に顔を埋める。イライジャの匂いにホッとした。

「貴方の代わりも誰も出来ないわ。私……貴方が居なかったら……」

続く言葉を躊躇った。これでは告白の様になってしまう。
すると少し震えた声が彼の胸につけた私の耳に響いて聞こえてきた。

「私も……キルステン様が居なかったら、自分にこんな感情がある事を知りませんでした」

「……?」


私がイライジャの言葉の意味を測りかねていると、

「自分とは無縁の感情でしたので、気づくのが遅れましたが、私はどうもキルステン様の事が好きな様です」

そう言ったイライジャは改めてギュッと私を抱き締めた。私が彼の顔を見ようと体を動かすが、全く緩めてくれない。

「今は顔を見ないでください」

彼が私をきつく抱き締めた理由が分かった気がした。


「顔が見たいのに」

そう言う私の顔はきっと締まりなくニヤニヤしていて、こちらも見られたもんじゃないだろう。

「ダメです。自分でもどんな顔をしているか分からないので」

「鏡でも見る?」

「止めておきます。今は……キルステン様を離したくない」

そんな風に言われたら、私の心臓もドキドキし過ぎて、そろそろ爆発しそうだ。
嬉しい……そう思う気持ちが私の答えなのだろう。
私は小さな声で、

「嬉しい」
と呟いた。


その声がイライジャに届いたかどうかは分からない。しかしそれに応える様にイライジャは私をもう一度キュッと抱き締めた。




その夜……イライジャはこれ以上二人で居るとおかしくなりそうだからと部屋を出て行った。

テーブルの上の冷めたハーブティーのカップが二つ。ここにイライジャが居たことを証明してくれている様でホッとする。さっきまでの事は夢じゃなかったと。

でも、イライジャは私の気持ちを改めて確認する事は最後まで無かった
今の私の立場では……私達を形にする事は難しいのかもしれない。

「多くを望んではダメね……」

イライジャはきっと私の気持ちがどうであれ、執事としてずっと側に居てくれるだろう。私はそれ以上を望んでいるのだろうか?
いや、慌てて答えを出すのはよそう。まだお互い気持ちに気付いたばかりだ。これから……歩み寄っていけば良い。そう思っていた。

明日ジョージと対峙する事になってもイライジャが側に居てくれる事が私の心を強くしてくれる。温かい気持ちで今日は休む事が出来そうだ、そう思っていた。……あの日まで。

人生は何が起こるか分からない。








翌日、お互い少しぎこちないながらも、私とイライジャは顔を見合わせた。

「良く眠れましたか?」

「ええ。イライジャは?」

「……どうでしょうか?気付いたら朝でした」

それは寝てないと言うのではないだろうか?

「大丈夫なの?」

「問題ありません。さぁ……行きましょうか」

私は差し出されたイライジャの腕を取る。

「行きましょう。ケリをつけなければ」

「大丈夫です。お守りしますから」

「頼りにしてるわ」

私がそう言うと、イライジャは『やっとそう言ってくれましたね』と微笑んだ。


部屋に入ると、ジョージと見知ったガーフィールド家の執事、それと今回の事に判断を下す裁判官が座っていた。


「お待たせいたしました」

「いえいえ、時間通りですよ。さぁ、そちらに座って下さい」

物腰の柔らかそうな裁判官に促され、私は指し示された席に着く。コの字に置かれた机。ジョージとは距離を置いて向かい合う形だ。


「それでは……始めましょうか」

裁判官の声が部屋に響く。私はフッと息を吐いた。

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