温厚専務の秘密 甘く強引な溺愛

さようなら、30代

そう言うと、圭吾は空になったグラスを取り上げ、カウンターへ冷ややかに視線を送った。
「……彼女に酒を重ねさせるな。水を頼む」

低く落ち着いた声なのに、有無を言わせぬ力があった。
常連であることを知るバーテンダーは、一瞬だけ波瑠を見やったが、すぐに小さく頷いて水を用意する。
「……勝手に決めないでください」
小さな抗議を返す波瑠に、圭吾はわずかに目を細めた。

「ひとりで酔いつぶれるつもりか?」
低く響く声が、胸の奥にまで届く。

「そ、そんなつもりじゃ……」
波瑠は言い返そうとしたが、言葉が続かなかった。
本当は“そうでもしなければやりきれなかった”のだ。最悪なデート、くだらない噂、そして押し寄せる孤独。

圭吾はグラスの水をそっと彼女の前に滑らせる。
「なら、飲め」

「……帰るぞ。送ってやる」
圭吾が低い声でそう告げ、椅子から立ち上がろうとしたとき。

「……いやです」
波瑠の声がそれを制した。

「なんだと?」
圭吾の眉がわずかに動く。
取引先の専務に向かって“いやです”と真っ向から返す社員など、そうはいない。

「専務に送ってもらったら……本当に、どうしようもない女みたいじゃないですか」
潤んだ瞳を向けながら、波瑠は続ける。
「噂通り、だれかれ構わず男の人に頼るような……そんな女に見えるのは、いやなんです」

圭吾は黙って彼女を見つめた。

「じゃあ、どうしたいんだ?」
低く落ち着いた声音。それなのに、まるで逃げ道を塞ぐような圧があった。

波瑠は唇を噛んだ。
どうしたいのか…本当は自分でもわからない。ただ、専務に送られていくのは嫌だ。噂通りの女に見られたくない。けれど、この夜の孤独を一人で抱え込むことも苦しい。

「……もう少しだけ、ここにいたいです」
絞り出すようにそう言った。

圭吾は短く息を吐き、口元にかすかな笑みを浮かべた。
「……なら、水を飲め。俺が付き合ってやる」

「……付き合って頂かなくてもいいの」
波瑠は視線を夜景に逸らし、ぽつりとこぼした。

圭吾は短く息を吐いた。
「強がるな」
「強がってなんか……」
「なら、なぜそう言う?」

問い詰めるような声音。だが表情は穏やかなまま。
温厚な仮面をまといながらも、有無を言わせない迫力がにじみ出る。

「君はひとりで飲むには酔いすぎている。……俺が隣にいた方が安心だろう」
圭吾の言葉は、上から押しつけるようでいて、不思議と拒めない優しさを帯びていた。

「……これ、飲んだら帰ります」
波瑠は水の入ったグラスを手に取り、唇を湿らせた。

圭吾はその様子を黙って見つめていたが、やがて低く言葉を落とす。
「本当に帰れるのか?」

波瑠は顔を上げる。
「……帰れます」
「酔った足でタクシーに乗るつもりか。危なっかしい」

「……結構です。放っておいて下さい」
そう言って夜景に視線を向けた波瑠の目から、ぽろりと涙がこぼれた。

自分でも気づいていなかったのだろう。
強がりの言葉とは裏腹に、抑えきれない痛みが零れ落ちていた。

圭吾は黙ってその横顔を見つめた。
照明に照らされた涙の筋が、彼女の凛とした輪郭を際立たせていく。

  美しい。

その瞬間、圭吾の胸の奥で、これまで感じたことのない熱が灯る。
ただの取引先の社員でもなく、美咲の部下でもない。
この女を“放っておけない”という感情が、はっきりと形を持ち始めていた。

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