温厚専務の秘密 甘く強引な溺愛

波のように美しい宝物

「君の名前は?」
圭吾の問いに、波瑠はわずかに背筋を伸ばした。

「……落合波瑠です」
「春の“春”か?」
「いいえ……“波”と書いて、“る”は王へんに“留める”と書きます」

圭吾は目を細め、繰り返すように口にした。
「波瑠……いい名前だな」

「ありがとうございます」
波瑠は小さく微笑んだ。
「父がつけてくれたんです。漁師だったんですけど……私の誕生を、とても喜んでくれて。『波のように美しい宝物だから』って」
一瞬、言葉をのみ込む。亡き父の面影を思い出したからだ。

圭吾は深く頷いた。
「……そうか」

それ以上余計な言葉を重ねることなく、ただ静かに受け止めるその姿に、波瑠の胸が温かく揺れた。

「で、波瑠は……どんな誕生日にしたいと思ったんだ?」
圭吾の声は驚くほど優しかった。夜景の光を受けたそのまなざしに、波瑠は一瞬言葉を失う。

ふふっと笑みがこぼれた。
「好きな人の腕の中で目覚めて……おいしいご飯を食べて、手をつないで歩いて……」

言葉にしてしまえば、あまりにささやかで。
「……退屈でしょ」
肩をすくめて、酔いを隠すように笑った。

けれど圭吾は、視線を逸らさなかった。
その平凡な夢を口にする波瑠が、誰よりも愛おしく映った。
温厚な仮面の奥で、確かに何かが揺れ動いていた。

「行きたいところはないのか?」
圭吾の問いに、波瑠は少し考えるように視線を上へ向けた。

「うーんと……夜景がきれいなところ。人が少ないほうがいいなあ」
ぽつりと漏れた声は、まるで子どものように素直で。

圭吾は片眉を上げる。
「屋外か? それとも屋内か?」
「……どちらでもいいです。人が少なくて、静かで……落ち着けるなら」

自分で答えながら、波瑠は照れくさそうに笑った。
派手な顔立ちに似合わぬ控えめな願いに、圭吾の胸の奥で小さな熱が広がっていく。

(……噂とは、まるで違う女だ)

そう思った瞬間、温厚な専務の仮面の裏に、甘く強引な衝動がゆらめいた。

「もう!専務ったら、デートプランを聞いてます?」
波瑠が頬を赤くしたまま、からかうように言う。
「新しく好きな人でもできたんですか? 佐倉さん結婚しちゃったし」

その名を聞いた瞬間、圭吾の眉がわずかに動いた。
「……どうして佐倉さんのことが出てくるんだ?」

波瑠はグラスを指先で転がしながら、真剣な眼差しを向ける。
「私と、何人かは気づいてましたよ。専務が佐倉さんに好意を持っているって」

一瞬の沈黙。
やがて圭吾はゆっくりと息を吐き、夜景に視線を戻した。

「……そうか」
短く肯定したあと、低く続ける。
「もう、終わったことだな」

その声音には未練はなく、きっぱりとした響きだけがあった。
けれど波瑠の胸はなぜかざわつき、理由もなく落ち着かなくなる。

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