温厚専務の秘密 甘く強引な溺愛

噂 迫る破壊

朝。
カーテンの隙間から、淡い光が差し込んでいた。

波瑠は目を閉じたまま、静かに呼吸を整えていた。
――寝たふり。

圭吾がベッドの脇を離れ、無言でシャツを羽織る気配がする。
革靴の音、上着を手に取る音。
そして、玄関の扉が静かに閉まる音が響いた。

部屋に、しんとした静寂が戻る。

波瑠はゆっくりとまぶたを開け、体を起こした。
昨夜の記憶が押し寄せ、胸の奥に重く沈む。

リビングへ足を運ぶと、乱れたソファの傍らに、破れたスカーフが落ちていた。
波瑠は震える指でそれを拾い上げる。

典子からの大切な贈り物。
その裂け目を見つめた瞬間、堪えていた涙が頬を伝った。

「……ひどい……」
かすかな声が漏れ、波瑠はそのままスカーフを胸に抱きしめる。

頬を伝う涙は止まらない。
圭吾の手で引き裂かれたのは、布だけではなかった。
「そんなんだから噂されるんだ」――あの言葉が鋭い刃となって心に突き刺さる。

必死に信じようとしていたものが、一瞬で崩れていった気がした。
愛されたいのに、踏みにじられてしまう。
抗う力も、守る術も、何も持たない自分がただ情けなくて。

ソファに沈み込むように座り込み、スカーフを抱きしめたまま波瑠は声を殺して泣いた。
絶望は、朝の光よりも重く彼女を覆っていた。

スカーフを抱きしめたまま泣き続けたあと、波瑠はようやく立ち上がった。
涙で視界が滲んだまま、バスルームへと足を運ぶ。

シャワーを浴びても、涙は止まらなかった。
温かな水流に紛れても、頬を伝う痛みは消えない。

「……今日は、今年最後の出勤日」
鏡に映る自分に言い聞かせるように小さくつぶやく。
「ちゃんとしなくては……泣いてばかりはいられない」

乱れた心を押し隠すように、慎重に通勤着へ袖を通す。
スカーフの代わりに巻いたのは、手元にあったシンプルなストール。

化粧を整え、深呼吸をひとつ。
自分を奮い立たせるように背筋を伸ばし、波瑠は自宅を後にした。

外の空気は冷たく澄み、吐く息が白く漂う。
胸の奥の痛みを抱えながら、それでも彼女は歩き出した。

会社に着いた波瑠は、いつも通りに振る舞おうとした。
笑顔を作り、同僚に声をかけ、仕事に集中しようと心を切り替える。

だが、その努力を打ち砕く声が化粧室から漏れ聞こえてきた。

「ねえ、昨日見た? 佐々木さんと一緒にいたの」
「見た見た。あの距離感……普通じゃないわよね」
「ほんと、尻軽女ってああいうのを言うのよ。女性だからって、同じように見られたくないわよね」
「次から次へとすごいわよ。ちょっと華やかな顔立ちだからって」

「それに、佐々木さんって結婚してるんでしょ?」
「そうそう。落合さんとも同期で、佐々木さんのことを争いあったけど、落合さんが振られて負けたって聞いたわよ」
「えー? それで、まだあきらめきれないのかしら? 信じられない」

「松田専務もいい迷惑よね。それだけじゃないわよ、ああいうのが会社にいるってだけで、イメージが悪くなるわよね」

秘書課の社員たちが、洗面台の前でひそひそと囁き合っていた。
根拠のない、嫉妬に塗れた噂話。
事実ではないのに、あたかも真実のように語られるその言葉が、波瑠の胸を鋭くえぐった。

個室にいた波瑠は、息を殺して耳を澄ませてしまった。
心臓が痛いほど打ち、喉の奥が熱くなる。

――出られない。

扉を開ける勇気が出なかった。
外にいる彼女たちと目が合えば、さっきの言葉がすべて自分に突きつけられたように思えてしまう。

便座に腰を下ろしたまま、両手で口を覆い、波瑠は静かに肩を震わせた。
涙がぽたりと落ち、冷たい床に小さな跡を作る。
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