温厚専務の秘密 甘く強引な溺愛

波瑠の決断

翌朝。
窓から差し込む冬の光に包まれながら、波瑠はゆっくりと目を覚ました。

昨夜、美咲からの電話で約束を交わしたことが、胸の奥に小さな温もりを残している。
(……嬉しかったな。私のことを気にかけてくれる人がいるんだって)

そう思うと、少しだけ気持ちが軽くなっていた。
けれど同時に、心の奥ではすでにひとつの答えにたどり着いていた。

――退職しよう。

あの会社に、もう居場所はない。
昨日耳にした噂話も、圭吾との関係も、どれも彼女を追い詰めるだけだった。
その決意のせいか、どこか肩の荷が下りたような気もしていた。



翌日のお昼。
待ち合わせたレストランは、落ち着いた雰囲気のイタリアンだった。
木目調の内装と窓際に差し込む冬の陽射しが、心をほっと和ませる。

「落合さん、こっち」
先に来ていた美咲が、静かに手を上げた。

「すみません、お待たせしました」
そう言って席に着く波瑠の頬には、まだ疲れの影が残っていたが、どこか安心した色も浮かんでいた。

ランチのコースが運ばれ、前菜の彩り豊かなプレートを前にすると、美咲がワイングラスを軽く持ち上げた。
「仕事納め、おつかれさま。……一年、よく頑張ったわね」

「ありがとうございます」
波瑠はグラスを合わせ、小さく笑みを返した。

会話は自然と仕事の話から少し離れ、プライベートや好きな食べ物、休日の過ごし方へと移っていく。
美咲の声は落ち着いていて、聞いているだけで安心感があった。

「……佐倉さん」
波瑠はグラスを握りしめ、視線を上げた。

「私……退職します」

テーブルに落ちたその言葉に、美咲の表情がわずかに揺れた。
けれど動揺を表に出さず、落ち着いた声で問いかける。

「……噂が理由なの?」

その一言が、波瑠の胸を突いた。
化粧室で耳にした、あの冷たい声。
事実ではないのに、事実のように語られた囁き。
――全部、美咲は気づいていたのだろうか。

「……正直に言えば、それもあります。けれど、それだけじゃなくて……」
指先でグラスの縁をなぞりながら、声が少し震える。

「今までずっと突っ張ってきたので……ここらで、一度、一区切りつけたくなったんです」

本当は弱音を吐きたくない。
けれど、美咲の前だからこそ、素直に言えたのかもしれなかった。

美咲は黙って頷き、グラスを置くと、じっと波瑠を見つめた。
その視線には責める色はなく、ただ真剣に受け止めようとする静かな力があった。

「それに……ハワイにいる家族が、誕生日にオープンチケットを送ってくれて。
休養も兼ねて、少しそっちで過ごしてみようかなって思ってます」

美咲の目がわずかに丸くなる。
それは予想していなかった言葉だったが、そこに逃避ではなく“前を向こうとする意志”があることを感じ取った。

「……そう」
美咲はゆっくりと頷き、ワイングラスを置いた。
その言葉には、波瑠の決意を否定せず、ただ静かに受け止める響きがあった。

「寂しくなるわ。……今までありがとう」

短い言葉だったが、その中に込められた温かさが、波瑠の胸に深く染み渡った。
涙があふれそうになるのを必死に堪えながら、波瑠は小さく微笑んだ。

「こちらこそ……本当にありがとうございました」

レストランの窓の外には、冬の陽射しがやわらかく降り注いでいた。

食事を終え、二人はレストランを後にする。
冬の空気が頬を刺すように冷たい。
けれど、波瑠の胸の内には、不思議な静けさが広がっていた。

「じゃあ……元気でね」
美咲が穏やかに言うと、波瑠は深く一礼した。

「はい……佐倉さんも。良いお年をお迎えください」

互いに小さく微笑み合い、背を向けてそれぞれの道を歩き出す。
年の瀬の街のざわめきに紛れながらも、その別れの余韻は波瑠の心に温かく残った。
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