君と描く最後のページ
エピローグ
春の風は柔らかく、街をゆっくり吹き抜けていく。
 空は澄み渡り、光はほんのり金色に街並みを染めていた。
 桜のつぼみはまだ完全には開かないけれど、枝の先端には淡いピンク色が顔を覗かせている。

 手に持つのは、美桜が最後にくれた絵本。
 表紙の角は少し擦れていて、ページの端は柔らかく波打っている。
 それだけで、彼女がこの本を大切に扱っていたことがわかる。

 ページを開くと、最初の数ページには、ふわふわの茶髪の美桜が笑う絵や、彼女が描いた小さな動物たちが並んでいた。
 その一つひとつに、彼女の優しい心と、見えない努力が詰まっている。
 胸の奥がぎゅっとなる。

(……君は……最後まで、笑って、描き続けていたんだ……)
 その思いだけで、涙が溢れ、頬を伝う。
 でも、悲しみだけではない。
 温かさと愛情が、胸いっぱいに広がる。



 ページをめくるたびに、思い出が甦る――

 あの日、秋風が吹く中で倒れた瞬間のこと。
 病院の白い壁、淡い光、そして彼女の微笑み。
 誰にも言わず、必死に普通の女の子として振る舞っていた姿。
 胸が締め付けられ、息が苦しくなるけれど、同時に心は温かい。

 公園で一緒にスケッチをした日々。
 千景と並んで笑いながら描いたあの時間。
 風が頬を撫で、木漏れ日が二人の影を長く伸ばしていた。
 美桜の笑顔は、光そのもののように俺の心に焼き付いている。

 小さな手で差し出してくれたお弁当、春の公園で食べたクッキーの味。
 すべてが五感の奥に残っていて、今も生きているように感じられる。



 そして最後のページ――
 小さな文字で、美桜が書いた一行。

「生きてくれてありがとう」

 その言葉を何度も声に出す。
 短いけれど、胸に重く、そして温かく響く。
 涙が頬を伝い、声がかすれる。
(……美桜……君は、僕に生きる理由をくれた……ずっと……)

 深呼吸をすると、春の光が窓から差し込み、絵本を温かく照らす。
 風が舞い込み、桜の花びらを指先に運ぶ。
 五感のすべてが、美桜の存在を確かに感じさせる。



 千景がそっと寄り添い、静かにうなずく。
「陽翔……君、ちゃんと伝えたんだね」
 その声に胸が熱くなり、視界が滲む。
 言葉はなくても、互いに心が通じ合う瞬間を感じる。
 悠斗も隣にいて、固く握った手が胸に触れる。

(……悲しいけど……温かい……)
 涙は止まらないけれど、同時に前に進む力も湧いてくる。



 街を歩くと、春の光は金色に輝き、風は穏やかに髪を撫でる。
 足元の舞い散る花びら、遠くの子供たちの笑い声、かすかに漂う花の香り――
 五感すべてが、過ぎた日々の思い出と重なり、胸に深く刻まれる。

 悲しみは消えないけれど、希望も同時に存在する。
 美桜が残した思い、やりたいことリスト、絵本――
 すべてが、俺を生かしてくれる。



 夕暮れ、校庭のベンチに座る。
 絵本を膝に置き、桜の木を見上げる。
 風がそっと頬を撫で、花びらが指先に触れる。
 胸の奥で、小さな声が囁く。

(……美桜、ありがとう……君がくれた思いを、僕は絶対に忘れない……)

 悲しみも切なさも、孤独ではない。
 美桜の記憶は、笑顔や声、温もりとして、日常の中で生き続ける。
 そして俺は、彼女の願いを胸に、今日も前を向いて歩き出す――

 春の光、風、桜――
 すべてが、君と生きた証を教えてくれる。
 悲しみの向こうにある温かさを抱え、俺は生きていく。
 君が残したものを、胸に抱きながら。
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