旦那様は秘書室の向こう側で ―社内極秘溺愛契約―

第1章 秘書室の新任常務

 朝の秘書課は、独特の緊張感と静けさに包まれていた。
 カタカタと鳴るキーボードの音、紙をめくる乾いた音、誰かが小さく咳払いをする音——それらが重なって、まるで空気まで張り詰めているようだった。

 私は机の上に並べた資料を確認しながら、心の奥で小さく深呼吸を繰り返していた。
 ——今日から、あの人が来る。
 頭では理解していても、胸の鼓動は落ち着く気配がない。

「本日付で、常務取締役秘書を兼務してもらうことになった。詳細は本人から聞いてくれ」

 秘書課長の声が響き、全員の視線が一斉に扉の方へ向いた。
 そして——その扉が静かに開く。

 長身の男性が一歩、また一歩と中に入ってくる。
 整った輪郭、冷たささえ感じさせる切れ長の目、よく仕立てられた漆黒のスーツ。
 その存在感だけで、場の空気が一段と引き締まった。

 ——篠崎颯真。
 若くして常務に就任した切れ者で、社内外から畏れと憧れを同時に向けられる人。
 そして、私の——夫。

 半年ほど前、誰にも知られぬように入籍した。
 理由は互いの家の事情と、社内の複雑な力関係。
 この事実を知っているのは、私と彼だけだ。

「篠崎颯真です。本日よりよろしく」

 簡潔で、感情を感じさせない声。
 仕事中の彼は、完璧に“常務”という仮面をかぶっている。

「秘書課の彩花です。本日からよろしくお願いいたします、常務」

 自分でも驚くほど、声が少しだけ震えていた。
 彼の視線が、一瞬だけ私の瞳をとらえる。
 その奥に、ごく短く——昨夜、私を抱き寄せたときと同じ熱が灯った。

 けれどすぐに、その光は冷静な色に戻る。
 「……よろしく、頼む」
 短くそう言うと、彼はすぐ別の秘書に向き直った。



 午前中は彼のスケジュール調整や資料の差し替えで忙殺された。
 やり取りは最低限、業務的な言葉だけ。
 ——まるで、初めて会った上司と部下のように。

 昼前、颯真が会議室から出てくる。
 私は手元のタブレットで次の予定を確認しながら、軽く会釈した。
 彼は歩きながら、ほんのわずかに首を傾ける。

「……昼休み、例の場所で」

 低く、他人には聞き取れない声。
 その響きに、背筋がぞくりと震えた。

「……わかりました、常務」

 わざと“常務”と呼び、唇の端を小さく上げると、彼の目が一瞬だけ細くなる。
 その視線には、誰にも見せない“夫”の色が隠れていた。
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