旦那様は秘書室の向こう側で ―社内極秘溺愛契約―

第2章 社内では他人のふり

 昼休みのチャイムが鳴ると同時に、私は手早くデスク周りを整えた。
 周囲の同僚たちはランチの話で盛り上がっているが、私は「資料室に行ってきます」とだけ告げ、颯真と決めた“例の場所”へ向かう。

 ——例の場所。それは、会議棟の一番奥にある予備資料室。
 普段はほとんど使われず、滅多に人が来ない。
 鍵は秘書課と役員だけが持っていて、もちろん颯真も。

 扉を開けると、既に彼が中にいた。
 背広の上着を脱ぎ、ネクタイを少し緩めている。
 仕事中の彼ではまず見られない、私だけが知っている姿。

「……来たな」

 低く抑えた声が、ひどく耳に心地いい。
 私は扉を閉め、そっと距離を詰める。

「呼び出しておいて、その言い方はないんじゃないですか、常務」

 わざと肩書きをつけて言うと、颯真は片眉を上げた。

「職場では、だろう。……ここは職場じゃない」

 次の瞬間、彼の腕が私の腰を引き寄せた。
 鼻先が触れそうな距離で、吐息が頬をかすめる。

「昼休みくらい、夫に甘やかされてもいいだろう?」

「……誰か来たらどうするんですか」

「鍵はかけた。心配するな」

 彼の手が背中を撫でる。
 その温もりに、思わず瞼を閉じかけたとき——

「篠崎常務?」

 廊下の向こうから、女性の声がした。
 私は反射的に彼の胸を押し、離れようとする。
 だが颯真は離さない。

「……動くな」

 扉越しの気配が遠ざかるまで、しっかりと抱き締められていた。
 心臓の音が、彼に聞こえてしまいそうで怖い。

「……ほら、危ないじゃないですか」

「危なくなんてない。……むしろ俺は、お前をこうして隠しておきたい」

 冗談とも本気ともつかない声音。
 だけど、その眼差しだけは——冗談なんかじゃなかった。
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