戦場帰りの聖女は「穢れた」と断罪され追放されたけれど、獣人の王に拾われて契約結婚したら溺愛されました~追放した王国が滅びかけて土下座してきましたが私はもう戻りません~
第15話 『穢れ』など誰も言わない国で
──血の匂いがした。
焼け焦げた布と、肉の焦げた臭い。
呻き声と、怒号。崩れ落ちる城壁。
視界が赤く染まり、祈りの言葉すら声にならない。
「お願い、まだ……生きてる……! この人はまだ!」
必死で魔力を練る。けれど届かない。
目の前の兵士は、虚ろな目をこちらに向け──そのまま、動かなくなった。
「……っ、ああ……!」
仲間の血で、足元は滑りそうになる。
癒せなかった命の重さが、手のひらを沈ませていく。
その時、背後から誰かが叫んだ。
「聖女が……穢れた! 魔族の血を浴びたんだ!」
振り返ると、味方だったはずの兵士たちが、後ずさる目でこちらを見ている。
「穢れてる……聖女じゃない……!」
その声に、祈りの光が滲んで消える。
手の中にあった希望が、音もなく砕け散った。
「違う、私は穢れていない!」
「ただ……私は……」
「……私は……助けたいだけなのに……っ!」
叫びは、誰にも届かない。
煙と血の臭いの中で、祈りの光が掻き消されていく。
膝をついたその瞬間、背後から『何か』が伸びてきた。
冷たくざらついた手。
血で濡れた指先。
それが、彼女の腕を、裾を、髪を──無数に掴む。
「やめろ……離せ!!」
振り払っても、また新たな手が絡みつく。
見知った兵士の顔、祈りを共にした修道士の手、それらが入り混じり、もはや誰のものなのかもわからない。
「穢れた……穢れた聖女だ……」
「血に染まった手で祈るな……」
無数の囁きが、耳の奥で渦を巻く。
光の代わりに、闇が彼女の指先から広がっていく。
セラフィーナは必死に手を合わせ、声を振り絞った。
「頼む……神よ……どうか、力を!」
だが祈りは、血に塗れた地面に吸い込まれていくだけ。
白かったはずの手の甲に、また赤い染みが広がった。
「……私は……私の心は、こんなにも、穢れていたのか……」
膝をついた手のひらに、再び血がにじむ。
それは、自分の血なのか、誰かの血なのか──もう、わからなかった。
絡みついた手の群れが、彼女を地面へと引きずり込む。
祈りの光が、闇に飲まれていく。
その瞬間、セラフィーナは、喉の奥から押し出されるように息を吐いた。
▽
「……っ!」
喉の奥から、息が漏れる。
セラフィーナは跳ねるように上体を起こし、荒く息を吐いた。
心臓が強く脈打ち、冷たい汗が額を濡らしている。
(……夢……またか……)
手が静かに震えていた。
顔に触れると、頬が濡れている。
月明かりだけが差し込む静かな部屋。
だが、胸の奥にはまだ焼け焦げた臭いが残っていた。
「……眠れそうに、ないな」
囁くように呟いて、セラフィーナは外套を羽織り、そっと寝台を離れた。
扉を開け、館の中庭へ出る。
夜風は肌寒く、空には幾つかの星がまたたいていた。
昼間には鳥たちの声が響いていた庭も、今はただ、静寂に包まれている。
セラフィーナは植え込みの縁に腰を下ろし、空を見上げる。
この国に来てから何度も見上げた空──けれど、今夜はなぜか泣きたいほど遠くに感じた。
ふと、気配を感じた。
背後から、足音もなく、ふっと影が差した。
「……」
何も言わず、ただ静かに隣に立ったその人影。
獣のようにしなやかな動き――風が揺らした銀の髪が、月明かりを受けてほのかに光る。
セラふぃなは思わず息を飲んだ。
そこには、ライグの姿があったのである。
「……陛下」
「……」
声をかけたが、彼は何も言わず、ただ隣に立ちながら同じように空を仰いでいる。
どうやら話を聞いてくれるらしく、彼の耳が微かに動いているように見えた。
セラフィーナは静かに笑いながら、口を動かした。
「……眠れない夜は、もう慣れた、ました……」
ぽつりとこぼれたセラフィーナの声に、ライグはわずかに頷く。
「……そうか」
短く返した声は低く、けれど冷たくはなかった。
二人の間に、また静かな沈黙が降りる。
夜の庭を風が通り抜け、葉擦れの音だけが響いていた。
──それは、過去の夢とはまったく違う沈黙だ。
やがて、ライグがぽつりと呟いた。
「……ここでは、誰もお前を“穢れ”などとは言わない」
セラフィーナは、目を見開いた。
「……え?」
ライグは夜空を見たまま、ゆっくりと続けた。
「俺の国にはそういう言葉自体がない。お前の力は、誰かを救うためのモノだ。それが、穢れているなどと──誰が言える?」
その声音は、決して感情的ではなかった。
ただ静かで、深く、確信に満ちていた。
セラフィーナは何も言えず、視線を落とす。
唇が震え、胸が強く締めつけられる。
──だが、ふと口を開いた。
「……夢を見ました」
ライグの視線が、ゆっくりと彼女に向けられる。
「嘗ての戦場の頃……そこにいた夢を。癒しきれなかった命を見送る夢……それでも祈って、祈って……それでも……誰にも届かなかった」
そこで、少し声がかすれる。
「なのに……あの人たちは私を指さして、こう言うんですよ……「穢れた聖女だ」って。「お前の手は、血で汚れている」って……まぁ、そうなんですけど」
言葉の最後は震えて、もうほとんど囁きに近かった。
それでも、彼女は話すことをやめなかった。
「……私は、命を救いたかっただけなんです」
長い沈黙――風が、木の葉を揺らす音だけが響く。
そして、ライグがゆっくりと、重みのある声で答えた。
「……その祈りは、届いていた……届いていたから、お前は今ここにいる」
セラフィーナの瞳が揺れる。
「信じる者は、救われる──それはおとぎ話だが、祈る者は、いつか報われる……俺はそう信じてる」
その言葉に、セラフィーナの胸の奥で何かが静かに溶けていくようだった。
「……ありがとう、ございます」
やっとの思いで絞り出したその言葉に、ライグは小さく目を伏せた。
「礼は要らん……ゆっくり休め」
それだけを言い残し、彼は歩き出す。
背を向けたその姿は、無骨で、けれどどこか背中で安心をくれるような存在だった。
セラフィーナはその背を、最後まで見送った。
心の奥に彼の言葉が、深く、静かに染み込んでいくのを感じながら。
(私は……この国で、生きていけるのかもしれない)
そう思ったのは、きっと初めてだったのかもしれない。
焼け焦げた布と、肉の焦げた臭い。
呻き声と、怒号。崩れ落ちる城壁。
視界が赤く染まり、祈りの言葉すら声にならない。
「お願い、まだ……生きてる……! この人はまだ!」
必死で魔力を練る。けれど届かない。
目の前の兵士は、虚ろな目をこちらに向け──そのまま、動かなくなった。
「……っ、ああ……!」
仲間の血で、足元は滑りそうになる。
癒せなかった命の重さが、手のひらを沈ませていく。
その時、背後から誰かが叫んだ。
「聖女が……穢れた! 魔族の血を浴びたんだ!」
振り返ると、味方だったはずの兵士たちが、後ずさる目でこちらを見ている。
「穢れてる……聖女じゃない……!」
その声に、祈りの光が滲んで消える。
手の中にあった希望が、音もなく砕け散った。
「違う、私は穢れていない!」
「ただ……私は……」
「……私は……助けたいだけなのに……っ!」
叫びは、誰にも届かない。
煙と血の臭いの中で、祈りの光が掻き消されていく。
膝をついたその瞬間、背後から『何か』が伸びてきた。
冷たくざらついた手。
血で濡れた指先。
それが、彼女の腕を、裾を、髪を──無数に掴む。
「やめろ……離せ!!」
振り払っても、また新たな手が絡みつく。
見知った兵士の顔、祈りを共にした修道士の手、それらが入り混じり、もはや誰のものなのかもわからない。
「穢れた……穢れた聖女だ……」
「血に染まった手で祈るな……」
無数の囁きが、耳の奥で渦を巻く。
光の代わりに、闇が彼女の指先から広がっていく。
セラフィーナは必死に手を合わせ、声を振り絞った。
「頼む……神よ……どうか、力を!」
だが祈りは、血に塗れた地面に吸い込まれていくだけ。
白かったはずの手の甲に、また赤い染みが広がった。
「……私は……私の心は、こんなにも、穢れていたのか……」
膝をついた手のひらに、再び血がにじむ。
それは、自分の血なのか、誰かの血なのか──もう、わからなかった。
絡みついた手の群れが、彼女を地面へと引きずり込む。
祈りの光が、闇に飲まれていく。
その瞬間、セラフィーナは、喉の奥から押し出されるように息を吐いた。
▽
「……っ!」
喉の奥から、息が漏れる。
セラフィーナは跳ねるように上体を起こし、荒く息を吐いた。
心臓が強く脈打ち、冷たい汗が額を濡らしている。
(……夢……またか……)
手が静かに震えていた。
顔に触れると、頬が濡れている。
月明かりだけが差し込む静かな部屋。
だが、胸の奥にはまだ焼け焦げた臭いが残っていた。
「……眠れそうに、ないな」
囁くように呟いて、セラフィーナは外套を羽織り、そっと寝台を離れた。
扉を開け、館の中庭へ出る。
夜風は肌寒く、空には幾つかの星がまたたいていた。
昼間には鳥たちの声が響いていた庭も、今はただ、静寂に包まれている。
セラフィーナは植え込みの縁に腰を下ろし、空を見上げる。
この国に来てから何度も見上げた空──けれど、今夜はなぜか泣きたいほど遠くに感じた。
ふと、気配を感じた。
背後から、足音もなく、ふっと影が差した。
「……」
何も言わず、ただ静かに隣に立ったその人影。
獣のようにしなやかな動き――風が揺らした銀の髪が、月明かりを受けてほのかに光る。
セラふぃなは思わず息を飲んだ。
そこには、ライグの姿があったのである。
「……陛下」
「……」
声をかけたが、彼は何も言わず、ただ隣に立ちながら同じように空を仰いでいる。
どうやら話を聞いてくれるらしく、彼の耳が微かに動いているように見えた。
セラフィーナは静かに笑いながら、口を動かした。
「……眠れない夜は、もう慣れた、ました……」
ぽつりとこぼれたセラフィーナの声に、ライグはわずかに頷く。
「……そうか」
短く返した声は低く、けれど冷たくはなかった。
二人の間に、また静かな沈黙が降りる。
夜の庭を風が通り抜け、葉擦れの音だけが響いていた。
──それは、過去の夢とはまったく違う沈黙だ。
やがて、ライグがぽつりと呟いた。
「……ここでは、誰もお前を“穢れ”などとは言わない」
セラフィーナは、目を見開いた。
「……え?」
ライグは夜空を見たまま、ゆっくりと続けた。
「俺の国にはそういう言葉自体がない。お前の力は、誰かを救うためのモノだ。それが、穢れているなどと──誰が言える?」
その声音は、決して感情的ではなかった。
ただ静かで、深く、確信に満ちていた。
セラフィーナは何も言えず、視線を落とす。
唇が震え、胸が強く締めつけられる。
──だが、ふと口を開いた。
「……夢を見ました」
ライグの視線が、ゆっくりと彼女に向けられる。
「嘗ての戦場の頃……そこにいた夢を。癒しきれなかった命を見送る夢……それでも祈って、祈って……それでも……誰にも届かなかった」
そこで、少し声がかすれる。
「なのに……あの人たちは私を指さして、こう言うんですよ……「穢れた聖女だ」って。「お前の手は、血で汚れている」って……まぁ、そうなんですけど」
言葉の最後は震えて、もうほとんど囁きに近かった。
それでも、彼女は話すことをやめなかった。
「……私は、命を救いたかっただけなんです」
長い沈黙――風が、木の葉を揺らす音だけが響く。
そして、ライグがゆっくりと、重みのある声で答えた。
「……その祈りは、届いていた……届いていたから、お前は今ここにいる」
セラフィーナの瞳が揺れる。
「信じる者は、救われる──それはおとぎ話だが、祈る者は、いつか報われる……俺はそう信じてる」
その言葉に、セラフィーナの胸の奥で何かが静かに溶けていくようだった。
「……ありがとう、ございます」
やっとの思いで絞り出したその言葉に、ライグは小さく目を伏せた。
「礼は要らん……ゆっくり休め」
それだけを言い残し、彼は歩き出す。
背を向けたその姿は、無骨で、けれどどこか背中で安心をくれるような存在だった。
セラフィーナはその背を、最後まで見送った。
心の奥に彼の言葉が、深く、静かに染み込んでいくのを感じながら。
(私は……この国で、生きていけるのかもしれない)
そう思ったのは、きっと初めてだったのかもしれない。