戦場帰りの聖女は「穢れた」と断罪され追放されたけれど、獣人の王に拾われて契約結婚したら溺愛されました~追放した王国が滅びかけて土下座してきましたが私はもう戻りません~

第16話 契約のはずだったのに


 これは、契約婚。
 ただの形式。
 ──守られるための、名目にすぎない。

 そう思っていたのに。

 どうしてだろう。
 この胸に宿るぬくもりは、あまりに優しくて。
 形式だけでは、説明がつかなくなってきている。

「……契約の、はずだったのに」

 そう呟いたセラフィーナは、ひとつ深く息を吐き、日記帳を閉じる。

 ──今日は、少し嬉しいことがあった。

 昼下がり、離れの館に一人の侍女がやってきた。

「王妃様、お子様たちからお手紙です」
「ああ、ありがとうございます」

 そう言って渡された封筒には小さな手形と、カラフルな絵。

 ノアとカルミア――あの双子の名前を聞いたとたん、セラフィーナの胸はきゅうっと締めつけられた。
 中には、ぎこちない文字でこう綴られていた。

「セラ、げんき?ぼくたち、おまつりいくよ!セラもきてね!だいすき!」

 そして、二人で描いたと思われる絵には、獣人の子どもと長い髪の女性が手をつないで笑っていた。

「……セラ、だいすき……」

 ぽつりと、セラは絵を撫でながら呟いた。
 涙ではない。
 けれど、胸の奥が温かくて、少し切なくなった。

(ほんとうに、ありがとう……)

 
   ▽


 夕方、城の高い塔の上。
 日が落ちきる少し前、空は茜色と薄青のグラデーションを描いていた。
 人の気配もなく、ただ風の音と鳥の羽ばたきが遠くに聞こえるだけ。
 石造りのテラスに腰かけ、セラは手元の日記帳を見つめていた。
 まだ白いページに、ペン先を添えて。
 何度も言葉を浮かべては、沈めていた。

「……こんなにも風が優しかったなんて……忘れたな」

 ぽつりと、独りごとのように。

 王都の風は冷たかった。
 屋根と屋根の隙間を縫って吹き込むその風は、体温を奪い心まで刺すようだった。

 でも、ここは違う。

 山を越えてきた風は空を渡るように柔らかく、髪を優しく撫でていく。
 まるで、「ここにいていい」と囁いてくれるようで――セラフィーナはページをめくり、静かに書き綴った。

 ――私は今、『形だけの妻』として、王の隣にいる。
 ――でも、この国で交わされる一言が小さく、けれど確かに私の心をほどいていく。
 ――彼の隣にいると鼓動が静かに、でも確かに、早まっていくのがわかる。
 ――この気持ちを……なんと呼べばいいのだろう?

「……私はどこぞの吟遊詩人か」

 自嘲気味に笑って、そっとペンを置く。
 その時だった。
 背後で、カツリと足音が響いた。
 セラフィーナが振り返ると、そこに立っていたのはライグだった。
 背後に立つのは当たり前のようになっているこの形だけの夫に、セラフィーナは一瞬驚いて体を震わせてしまったが、すぐに平然とした顔に戻す。

「へ……陛下」

 黒の外套に身を包み、黒銀の髪を風に揺らしながら、彼は月明かりが彼の肩と髪を照らし、いつものように感情の読めない端正な横顔をつくっていた。

 だけど――その目元が、どこか柔らかく見えたのは、気のせいではなかった。

「……風に当たりに来たのか?」

 低く落ち着いた声。
 それは、どこか今日だけ、ほんの少しだけ温かみを含んでいた。

「ええ……今日、ノアとカルミアからお手紙が届いたんです。少し、嬉しくて……気持ちが落ち着かなってしまいました」
「……そうか」

 それだけを言って、ライグはセラの隣に歩み寄る。
 何も言わず、何もせず、彼はただ静かに彼女の横に立った。
 肩が触れることはない。
 でも、その距離は妙に心地よくて、セラフィーナは不思議と緊張しなかった。

 しばらくの沈黙のあと、ふと、横目で彼を見ると――

(……え……?)

 その横顔。
 いつもの鋭さはほんのわずかに和らぎ、月明かりに照らされた口元が――微かに、笑っているように見えたのは気のせいだろうか?

 ほんの少し。本当に、微細なものだったけれど間違いなく笑みだ。

(……笑ってる……)

 驚きで胸が跳ね、息を吸い込んだ。
 だけど、言葉にはしなかった。
 見つめてはいけない気がして、そっと目を伏せる。

(やっぱり……この人は、優しい)

 寡黙でぶっきらぼうで、不器用で。
 でも、その沈黙の中にはいつも誰かを思う気配がある。
 私はそれを、少しずつ感じ取れるようになってきた。

 ――契約のはずだったのに。
 ――形式だけのはずだったのに。
 ――自分自身を、守るためのはずだったのに。

 この胸の鼓動は、何を求めているの?

(契約のはずだったのに……なんなんだ、これは?)

 風が吹く。
 二人の間を、静かに通り抜けていく。
 ライグは空を見上げたまま、何も言わない。
 でも、そこにある沈黙は冷たくない。
 ただ、温かい感じの静寂だった。

 ──彼は、まだ言葉にしない。

 でも、セラフィーナの鼓動は彼の隣で静かに早まっている感覚を覚えてたのだった。

 

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