戦場帰りの聖女は「穢れた」と断罪され追放されたけれど、獣人の王に拾われて契約結婚したら溺愛されました~追放した王国が滅びかけて土下座してきましたが私はもう戻りません~
第23話 怒りという感情の輪郭
夕暮れの光が、養育舎の中庭を柔らかく染めていた。
セラフィーナは木陰のベンチに腰かけ、左右にノアとカルミアをはべらせるようにして三人並んで座っていた。
二人とも手にした果実をかじりながら、楽しげに笑っている。
「ねぇねぇセラ、今日はもう帰らないよね?」
「ねー!今日は、夜までいるって言ってたもん!」
「え、そ、それは流石に……」
慌てながらそのように答えるセラフィーナに対し、カルミアがセラフィーナの腕にぎゅっとしがみつくと、ノアも負けじと反対側の袖をつかむ。
「帰るなら、一緒に離れまで行く!」
「お風呂も!セラのとこで入る!」
「だから一緒にくだものたべよ!」
「美味しいんだよ、これ!」
セラフィーナは苦笑しながら、二人の頭をなでた。
「ぐ……今日はちゃんと言うこと聞くって約束しただろう?」
「うぅ……でも……」
カルミアが名残惜しげにセラフィーナの肩に頬をすり寄せ、ノアも同じようにくっついてくる。
そんな二人の姿に、心臓が張り裂けそうで痛い。
その様子に、近くで遊んでいた他の子どもたちが、ちらちらとセラフィーナのほうを見ながらひそひそと話しはじめる。
まだ彼女に完全に心を許したわけではないが、距離は確実に縮まっていた。
その時、一人の年長の子が何の悪気もなさそうにセラフィーナへ声をかけた。
「ねえ、セラフィーナさまって……どうして王妃さまになれたの?」
すぐ隣から、小さな声が飛んできた。
セラフィーナは、ほんの一瞬だけ瞬きをしてしまう。
振り向けば、そこには小柄な鹿の獣人の少女がいた。
大きな瞳をまっすぐに向けて、好奇心のままに問いかけてくる。
悪意は見られない。
ただ、幼い無垢な心が、素朴な疑問を口にしただけだった。
けれど、その次の声が──空気を変えた。
「クラウディア様が言ってた。「王族の血を、穢さないでほしいわ」って」
少し離れた場所にいた年上の男の子が、ぽつりと呟くように言った。
それもまた、純粋たる言葉だ。
けれどその言葉は、まるで刃のようにセラフィーナの胸を切り裂いた。
彼女は思わず、果実を包んでいた指先に力を込めてしまう。
──ぱしゅり、と小さな音がした。
セラの手元――握っていた果実が僅かに潰れて果汁を指の間から滲ませた。
その指は白く、強く、まるで何かを――堪えているかのようだった。
「そうか……いろんな考えがあるということなんだな……」
ぽつりと落ちた言葉は、柔らかいものではなかった。
口元はかすかに笑っていたが、その目は凍るような静けさを湛えていた。
それは、誰のものでもない感情。
ただ、彼女の中だけでひっそりと燃える怒りの形だった。
不意にその表情を見た子どもたちは、動きを止め、目を瞬かせた。
静かすぎる沈黙――それは、笑顔の王妃とはまるで別の顔だ。
けれど──その時間は、ほんの数秒で終わる。
セラフィーナはふっと息を吐き、すぐに優しい微笑みを浮かべた。
「フフ……ごめんなさいね。ちょっと手を汚しちゃったわ」
何事もなかったかのように、潰れた果実をそっとかごに戻す。
先ほどの冷たい光は跡形もなく、そこには、いつもの穏やかな王妃の顔があった。
だが子どもたちは、確かに見た。
彼女の奥に、ほんの少しだけ──『怒り』という感情の輪郭があったことを。
そして、それが誰かを傷つけるためではなく、誰かを守るために生まれたものなのだという事を幼いながらも、本能で理解していた。
「でもね」
セラフィーナは穏やかに、けれどはっきりとした声で続ける。
「私は、王妃としてふさわしいかどうかより──あなたたちが笑っていてくれることの方が、大事なのよ?」
その声に、子どもたちは頷いた。
ノアが彼女の膝に寄り添い、カルミアがそっと袖を引いた。
「セラは……いちばん、あったかい王妃さまだよ」
「そうだよ、わたしたちにとって、大切できれいな王妃さまだもん!」
セラフィーナはようやく微笑み、今度は両腕を広げて二人をぎゅっと抱きしめた。
夕暮れの空は赤く、空気は少しだけ肌寒かったけれど。
その一時だけは世界のどこよりも、あたたかかった。
▽
その日の夜。
王城の離れ、静まり返ったベランダに月の光が静かに降り注いでいた。
セラフィーナは薄手の羽織をまとい、石造りの手すりにそっと手を置いたまま、夜空を仰いでいた。
満ちかけの月が空高く、どこまでも冷たく光っている。
その光は、優しいようで、どこか遠く──届かないもののように思えた。
風が、彼女の頬を撫でていく。
だがその風すら、今夜は心を慰めてはくれなかった。
そして今、セラフィーナの中に渦巻くのは、怒り、悲しみ、そして静かな痛み。
ノアとカルミア――そして、あの子たち。
何も知らない。悪意もない。
ただ、大人が言った事を──そのまま信じてしまっただけ。
(……どうして、子どもの口から……あんな言葉が出るの……?)
あの時、心の奥がぐしゃりと潰れるような音がした。
――穢さないでほしいわって
あの子の小さな唇から、まるで呪いのようにこぼれた言葉。
クラウディアが、どう思っていようといい。
自分の存在を認めていなかろうと、構わない。
それは最初から、覚悟していた。
けれど──子どもの前で、そんな言葉を平然と落とすのは違う。
あの子たちが、どんなふうに心を育てていくのか、どんな未来に向かって歩くのか。
大人の一言がその全てを変えてしまうのだと──あの人たちは、わかっていない。
セラフィーナはゆっくりと目を閉じ、胸に手を当てる。
心臓の鼓動が、小さく、小さく震えていた。
「私は……ただ守られている……それだけ、だもの」
それは慰めではなかった。
ただ、己に言い聞かせるような、冷めた独白だった。
自分を守るために、陛下であるライグと契約婚をした。
自分は名ばかりの王妃であり――形式だけのつながり。
(──わかってる。最初から、わかってた)
なのに。
どうして──こんなにも、胸が痛むのだろう?
守られているだけの自分が、こんな夜に、どうして、一人きりで立ち尽くしているのだろう。
言葉にならない感情が、喉の奥で震える。
目は閉じたままなのに、頬がわずかに熱を帯びる。
けれど、泣いてはいけない――それは、誰のためでもなく、自分のために。
セラフィーナは、そっと息を吸い込む。
夜気は澄んでいて、ほんの少し薬草の香りが混じっていた。
遠くで、鳥がひとつ、羽ばたく音がする。
目を開けると、夜空が広がっていた。
雲ひとつない、星のない夜、月だけが高く、彼女の影を長く伸ばしていた。
その光は──冷たくも、暖かくもない。
ただ、真実を映し出すように、静かだった。
セラフィーナは木陰のベンチに腰かけ、左右にノアとカルミアをはべらせるようにして三人並んで座っていた。
二人とも手にした果実をかじりながら、楽しげに笑っている。
「ねぇねぇセラ、今日はもう帰らないよね?」
「ねー!今日は、夜までいるって言ってたもん!」
「え、そ、それは流石に……」
慌てながらそのように答えるセラフィーナに対し、カルミアがセラフィーナの腕にぎゅっとしがみつくと、ノアも負けじと反対側の袖をつかむ。
「帰るなら、一緒に離れまで行く!」
「お風呂も!セラのとこで入る!」
「だから一緒にくだものたべよ!」
「美味しいんだよ、これ!」
セラフィーナは苦笑しながら、二人の頭をなでた。
「ぐ……今日はちゃんと言うこと聞くって約束しただろう?」
「うぅ……でも……」
カルミアが名残惜しげにセラフィーナの肩に頬をすり寄せ、ノアも同じようにくっついてくる。
そんな二人の姿に、心臓が張り裂けそうで痛い。
その様子に、近くで遊んでいた他の子どもたちが、ちらちらとセラフィーナのほうを見ながらひそひそと話しはじめる。
まだ彼女に完全に心を許したわけではないが、距離は確実に縮まっていた。
その時、一人の年長の子が何の悪気もなさそうにセラフィーナへ声をかけた。
「ねえ、セラフィーナさまって……どうして王妃さまになれたの?」
すぐ隣から、小さな声が飛んできた。
セラフィーナは、ほんの一瞬だけ瞬きをしてしまう。
振り向けば、そこには小柄な鹿の獣人の少女がいた。
大きな瞳をまっすぐに向けて、好奇心のままに問いかけてくる。
悪意は見られない。
ただ、幼い無垢な心が、素朴な疑問を口にしただけだった。
けれど、その次の声が──空気を変えた。
「クラウディア様が言ってた。「王族の血を、穢さないでほしいわ」って」
少し離れた場所にいた年上の男の子が、ぽつりと呟くように言った。
それもまた、純粋たる言葉だ。
けれどその言葉は、まるで刃のようにセラフィーナの胸を切り裂いた。
彼女は思わず、果実を包んでいた指先に力を込めてしまう。
──ぱしゅり、と小さな音がした。
セラの手元――握っていた果実が僅かに潰れて果汁を指の間から滲ませた。
その指は白く、強く、まるで何かを――堪えているかのようだった。
「そうか……いろんな考えがあるということなんだな……」
ぽつりと落ちた言葉は、柔らかいものではなかった。
口元はかすかに笑っていたが、その目は凍るような静けさを湛えていた。
それは、誰のものでもない感情。
ただ、彼女の中だけでひっそりと燃える怒りの形だった。
不意にその表情を見た子どもたちは、動きを止め、目を瞬かせた。
静かすぎる沈黙――それは、笑顔の王妃とはまるで別の顔だ。
けれど──その時間は、ほんの数秒で終わる。
セラフィーナはふっと息を吐き、すぐに優しい微笑みを浮かべた。
「フフ……ごめんなさいね。ちょっと手を汚しちゃったわ」
何事もなかったかのように、潰れた果実をそっとかごに戻す。
先ほどの冷たい光は跡形もなく、そこには、いつもの穏やかな王妃の顔があった。
だが子どもたちは、確かに見た。
彼女の奥に、ほんの少しだけ──『怒り』という感情の輪郭があったことを。
そして、それが誰かを傷つけるためではなく、誰かを守るために生まれたものなのだという事を幼いながらも、本能で理解していた。
「でもね」
セラフィーナは穏やかに、けれどはっきりとした声で続ける。
「私は、王妃としてふさわしいかどうかより──あなたたちが笑っていてくれることの方が、大事なのよ?」
その声に、子どもたちは頷いた。
ノアが彼女の膝に寄り添い、カルミアがそっと袖を引いた。
「セラは……いちばん、あったかい王妃さまだよ」
「そうだよ、わたしたちにとって、大切できれいな王妃さまだもん!」
セラフィーナはようやく微笑み、今度は両腕を広げて二人をぎゅっと抱きしめた。
夕暮れの空は赤く、空気は少しだけ肌寒かったけれど。
その一時だけは世界のどこよりも、あたたかかった。
▽
その日の夜。
王城の離れ、静まり返ったベランダに月の光が静かに降り注いでいた。
セラフィーナは薄手の羽織をまとい、石造りの手すりにそっと手を置いたまま、夜空を仰いでいた。
満ちかけの月が空高く、どこまでも冷たく光っている。
その光は、優しいようで、どこか遠く──届かないもののように思えた。
風が、彼女の頬を撫でていく。
だがその風すら、今夜は心を慰めてはくれなかった。
そして今、セラフィーナの中に渦巻くのは、怒り、悲しみ、そして静かな痛み。
ノアとカルミア――そして、あの子たち。
何も知らない。悪意もない。
ただ、大人が言った事を──そのまま信じてしまっただけ。
(……どうして、子どもの口から……あんな言葉が出るの……?)
あの時、心の奥がぐしゃりと潰れるような音がした。
――穢さないでほしいわって
あの子の小さな唇から、まるで呪いのようにこぼれた言葉。
クラウディアが、どう思っていようといい。
自分の存在を認めていなかろうと、構わない。
それは最初から、覚悟していた。
けれど──子どもの前で、そんな言葉を平然と落とすのは違う。
あの子たちが、どんなふうに心を育てていくのか、どんな未来に向かって歩くのか。
大人の一言がその全てを変えてしまうのだと──あの人たちは、わかっていない。
セラフィーナはゆっくりと目を閉じ、胸に手を当てる。
心臓の鼓動が、小さく、小さく震えていた。
「私は……ただ守られている……それだけ、だもの」
それは慰めではなかった。
ただ、己に言い聞かせるような、冷めた独白だった。
自分を守るために、陛下であるライグと契約婚をした。
自分は名ばかりの王妃であり――形式だけのつながり。
(──わかってる。最初から、わかってた)
なのに。
どうして──こんなにも、胸が痛むのだろう?
守られているだけの自分が、こんな夜に、どうして、一人きりで立ち尽くしているのだろう。
言葉にならない感情が、喉の奥で震える。
目は閉じたままなのに、頬がわずかに熱を帯びる。
けれど、泣いてはいけない――それは、誰のためでもなく、自分のために。
セラフィーナは、そっと息を吸い込む。
夜気は澄んでいて、ほんの少し薬草の香りが混じっていた。
遠くで、鳥がひとつ、羽ばたく音がする。
目を開けると、夜空が広がっていた。
雲ひとつない、星のない夜、月だけが高く、彼女の影を長く伸ばしていた。
その光は──冷たくも、暖かくもない。
ただ、真実を映し出すように、静かだった。