戦場帰りの聖女は「穢れた」と断罪され追放されたけれど、獣人の王に拾われて契約結婚したら溺愛されました~追放した王国が滅びかけて土下座してきましたが私はもう戻りません~

第32話 崩れゆく信仰の街【王国視点】

 王都の夜。
 昼間の祝祷のざわめきが嘘のように、街の広場は重い沈黙に包まれていた。

 奇跡は起きなかった。

 新しい聖女ルクレツィアが祈りを捧げても、癒しの光はひとつも灯らなかった。

 その事実は、瞬く間に王都中へと広まっていた。
 信仰深い者ほど、声を失い、街角では囁きが連鎖していく。

 ──あの聖女は、本物ではないのではないか。
 ──嘗て穢れた聖女のセラフィーナは、たしかに奇跡を見せたのに。
 ──穢れたと呼ばれた彼女こそ、真の聖女だったのでは――。

 そんな声が、夜風に混じって広がっていた。

   ▽

 王城の奥――重厚なカーテンに閉ざされた応接室。
 そこには、王太子ジルヴァン・ヴァレンツィアと教会長ベネディクトゥスの姿があった。
 昼の儀式の報告を終えたばかりの彼らの表情には、明らかに焦燥が滲んでいる。

「……どういうことだ、ベネディクトゥス。『仕込み』は万全だったはずだろう?」

 低く、押し殺した声――ジルヴァンは手元の杯を握り締めたまま、鋭い目で教会長を睨む。

「ええ……万全だったはず、です」

 ベネディクトゥスは冷や汗を拭い、言葉を続けた。

「聖石の魔導刻印も起動していた。だが……どうやら、何かが『干渉』していたようで」
「干渉?」
「ええ。聖堂全体の魔力の流れが、どこかで歪んでいた。……まるで、祈りそのものが拒絶されたかのように。」

 室内に沈黙が落ちる。
 ジルヴァンは目を細め、ゆっくりと口を開く。

「──あの女の名を、もう一度言ってみろ」

 ベネディクトゥスは、一拍おいて答える。

「……セラフィーナ・ミレティス」

 ジルヴァンの指が、無意識に机を叩いた。
 乾いた音が室内に響く。

「『穢れた聖女』と呼ばれた女を、我々は追放した。その瞬間から、王都に奇跡は戻らなくなった……まるで、神が見放したようにな」
「偶然です」

 ベネディクトゥスは、食い気味に否定する。
 だが、声の端が揺れていた。

「偶然、か……」

 ジルヴァンは、笑うでもなく吐き出すように呟いた。
 そして窓辺へ歩み寄り、夜の街を見下ろす。

 広場では、まだ人々が小さな灯を掲げ、跪いている者たち。
 『祈り』を求める者たちの群れ。
 だがその祈りは、もう届かない。

「……民が“奇跡”を信じなくなれば、我々の体制は崩壊する」
「だからこそ新たな聖女の存在が必要なのです。ルクレツィア嬢はまだ若く、すぐに信頼を得られる――」
「信頼?もう失ったものをどうやって戻す?」

 ジルヴァンの声が、鋭く空気を裂く。
 彼の瞳には、深い疲労と苛立ちが滲んでいた。

「……『本物』を追い出した時点で、我々はもう後戻りできなかったのかもしれんな」

 ベネディクトゥスが口を閉ざす。
 その言葉を否定できる者など、もうどこにもいなかった。

「聖女という『象徴』が都合よく動かなくなった……民の信仰は、砂のように崩れ始めている」

 ジルヴァンは静かに背を向けた。
 窓の外の夜空を見上げると、かつてセラフィーナが立っていた聖堂の塔が、
 薄暗い月光の中で寂しく浮かび上がっていた。

「……あの女がもし、まだ生きているなら――」

 言葉の続きを、彼は飲み込んだ。
 口にすれば、取り返しがつかない気がした。

 その沈黙を破ったのは、ベネディクトゥスのかすれた声だった。

「殿下……もしかして、フェルグレイ国で保護されているという噂を──」

 その瞬間、ジルヴァンの目が光る。

「確認しろ。本当に『彼女』がそこにいるのなら……すべての均衡が崩れるぞ」

 ベネディクトゥスは小さく頷いた。
 そして、静かに部屋を後にする。
 扉が閉ざされたあと、王太子は一人、窓の外を見つめたまま呟いた。

「……都合のいい『真実』だけではもうこの国は救えんのかもしれんな」

 ジルヴァンはぼそりと呟き、椅子の背にもたれる。
 窓の外では、鐘の音が乾いた風に乗って響いてきており、そしてまるで、不穏の前兆を告げる――警鐘のようだった。
 彼は軽く眉をひそめると、机の上に並んだ書類へと目を落とした。

(……民が求めているのは『本物』ではない。ただ、それらしく振る舞う偶像だ)

 王都は脆い。民心も、信仰も、制度もすべてが幻想で保たれている。
 その中に『本物』を混ぜればどうなるか――それは、既に証明されていた。
 ジルヴァンの脳裏に、一人の女の姿が浮かぶ。

 ──セラフィーナ・ミレティス。

 泥と血にまみれ、兵士の前に膝をついて祈っていた聖女。
 名も無き兵に手を差し伸べ、傷を負いながらそれでも笑っていた愚かな女。
 あれが本物の聖女だったのかもしれない、と一瞬でも思った自分が、今となっては腹立たしかった。

(……理想を体現しながら、どこまでも不器用で、そして扱いにくい存在だった)

 権威を乱し、民衆を直接動かす『力』を持ち、感情で判断し、命を惜しまない。
 まるで、神の意思すら捻じ曲げてしまいかねない危うさ。
 あれでは、王家も教会も制御できるはずがない。

 だからこそ──追放した。

 『穢れた』と称し、『聖女』の名を剥奪した。
 あの時、背を向けた兵士たちの沈黙も、教会の捏造も、すべてが綿密に計算された結果だった。
 そして今、舞台に立たせたのは、従順な名家の令嬢。
 力はないが、嘘をつくには都合のいい器。
 問題などない。
 癒しの奇跡が起きなくても、“それらしい演出”があれば民は満足する。
 ……そう、ベネディクトゥスも言っていたではないか。

「……それでも民が『本物』を望んだときが来たら――どうする?」

 ジルヴァンは、そう独りごちた。
 自分でも気づかぬほど低い声で。
 窓の外では、王都の空が曇り始めていた。
 不穏な空気が流れ、遠くの広場ではざわめきが起きている。

 ――だが、もう遅い。

 民心のための聖女制度はもう『偶像』でしかない。
 奇跡も祈りも、意味はない。
 ジルヴァンはゆっくりと立ち上がり、窓の向こうを見つめた。

「セラフィーナ・ミレティス……」

 かつて『本物』だった存在。
 今や異国に渡っていると情報がある。

 ――だが、問題ない。

 もう戻ることはないし、戻らせるつもりも……なかった。

 彼女が『本物』であったとしても、 この国が必要としているのは、 嘘でも動く偶像――扱いやすい人形だけだ。
 けれど、もしも――民が偽物では満足しなくなったら?

 ジルヴァンは立ち止まり、唇を薄く引き結ぶ。
 そして、誰にも聞こえぬ声で――ぽつりと呟いた。

「……いっそのこと、連れ戻すか」

 その声が、どこか無感情だったのは、 それが単なる思いつきでも、衝動でもなく、国家の道具としての判断だったから。

 遠く、鐘の音が鳴る。

 それは祈りの音ではなかった。
 偽りの聖女と、都合のいい真実に支えられた王都が、 いま静かに崩れ始めている。

 ――その予兆を、確かに告げていた。
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