戦場帰りの聖女は「穢れた」と断罪され追放されたけれど、獣人の王に拾われて契約結婚したら溺愛されました~追放した王国が滅びかけて土下座してきましたが私はもう戻りません~
第34話 薄紅の紅茶と王と姫君
フェルグレイ王城、西塔にある私的応接室――格式ばった執務室とは違い、陽の差す窓と落ち着いた木調の内装が心を和ませる王と親しい者だけが招かれる特別な空間。
午後の陽がカーテン越しに差し込む中、クラウディア・レイゼンは椅子に腰を下ろしていた。
その向かいにいるのは、この国の王、ライグ・ヴァルナーク。
小さな丸テーブルを挟み、二人の間に漂っていたのは静かな紅茶の香りと、重い沈黙。
「……上手く追い返せたとは思っていませんの」
クラウディアが口を開いたのはミリアが三杯目の紅茶をそっと置いた直後だった。
柔らかくカップを傾け、その表情には微かな陰が差していた。
「王都の使節団……今回の撤退は、ただの様子見――本命はこれからでしょうね」
「だろうな」
ライグは一口、紅茶をすする。
苦味のない、花のような薄紅の香りが口に広がるが、彼の目の奥には戦場と同じ鋭さが宿っていた。
「奴らがセラフィーナを取り戻そうとしたのは、『聖女』としてではない。王都の『所有物』としてだ。あの女が誰のものなのか――それを世界に知られるのが怖かったのだろう」
「……ええ」
クラウディアは淡く頷く。
窓の外では、小鳥の鳴き声がかすかに響いている。
まるで、平和を装った風景だ。
「私は、王都の事情を誰よりも知っています」
クラウディアは湯気の立つティーカップを手に、真っ直ぐに言葉を続けた。
「民が信じているのは奇跡ではなく、形だけの聖女制度……その制度を支えているのは、教会と貴族たちの都合の良い物語だけですわ」
そこまで言った時、彼女の瞳に怒りの色が浮かぶ。
「それが崩れれば、彼らの権威も、支配も、一瞬で瓦解する。だからこそセラフィーナ様のような『本物』は――目障りなのです」
紅茶を運んでいたミリアが、手を止める。
張りつめた空気に、思わず緊張が走った。
「……わかっていても、腹が立つな」
ライグの声が低く唸るように響き、空気がさらに重くなる。
手にしていた銀のスプーンが、彼の握力でわずかに歪んだ。
「俺は――」
言葉を強めながら、ライグは鋭く言い切った。
「俺は、彼女を、セラフィーナを『妻』として迎えた……契約など関係ない」
その声には、王としての威厳と男としての激しい怒りが宿っている。
「彼女は、この国の『王妃』だ。誰にも……誰にも奪わせはしない」
重苦しい沈黙が、数秒だけその場を支配する。
クラウディアが思わず、カップを置く手を震わせたのに気づかないほどに。
だが、次の瞬間――クラウディアが小さく微笑んだ。
「……やっぱり、そう仰るのですね」
表情は柔らかく、けれどその奥に秘めたものは、同じく熱い怒りと揺るがぬ信念だった。
「何がだ?」
少しだけトーンを緩めたライグの問いに、クラウディアは静かに答える。
「セラフィーナ様を『信じている』と、言ってくださいました」
クラウディアの笑みは、もはや仮面ではなかった。
誇り高き貴族の顔でも、王妃候補としての顔でもない――ただ、あの夜、自ら剣を抜いた女性に心を打たれた一人の少女のまっすぐな顔だった。
「……あの方は、誇り高く、美しく、そして……とても強いです!」
ミリアは、静かに言葉を継いだ。
「王妃として聖女として、ではありません。一人の人間として……私は心からセラフィーナ様を尊敬しています」
その声に、クラウディアは微笑み、ティーカップをそっと置いた。
「……やはり、皆、そう思うのね」
彼女は少し背を伸ばし、椅子の背にもたれながらライグに視線を送る。
「で、陛下。結局あの使者たち……諦めるつもりはないのでしょう?」
ライグは肩をすくめ、小さく鼻を鳴らす。
「そもそも……逃がすつもりなどない」
「……出ましたわね、独占力」
クラウディアが呆れたように言いながらも、唇の端を上げる。
「まぁ、私も人のことは言えませんわ。だって分かりますもの。あの人を、一度でも傍で見たら……手放したくなくなる気持ち」
「……獣人の愛は重いと、前に言っていただろう?」
「ええ、まさにその通り。人間の貴族社会では愛は交渉材料。でも、獣人のそれは──本能ですものね。だからこそ……羨ましい」
クラウディアの瞳が一瞬、物憂げに揺れた。
けれどすぐに、いつもの気丈な表情へと戻る。
「にしても……フェルグレイにここまで執着するとは、王都もずいぶんと余裕がなくなってきたようですわね」
「教会も、貴族も、もう正面からは立て直せまい」
ライグは静かに言った。
「崩れゆく制度を支えていたのは、セラフィーナの力……いや、彼女の存在そのものだった。だが、もう彼女はこの国の者だ。戻る理由などどこにもない」
「なのに、奪おうとする……」
「……その時点で、あいつらの負けだ」
クラウディアは笑った。
少し呆れて、けれどどこか楽しそうに。
「ふふ。まったく……陛下って、意外と愛情表現がストレートなんですのね。私、てっきり不器用で黙って背中で語るタイプかと思っていましたわ」
「……黙っていれば、伝わらない」
「本当、素敵なお方に出会われましたのね陛下も」
ミリアが、いつの間にかそっとティーポットを下げていた。
カップから立ち上る、薄紅色の香りだけが、まだ部屋の空気に名残を残している。
ふと、クラウディアがその香りに目を細める。
「……この紅茶、セラフィーナ様に淹れていただいたときと、同じ香り」
「セラ様が「少し甘めで」と仰ったので、今日の分もそうしました」
ミリアが嬉しそうに頷く。
「本当に……あの方がいてくださるだけで、空気まで変わるんです」
その言葉に、二人はしばし沈黙する。
外では鐘の音が鳴り響いた。
静かに、どこか遠くから聞こえてくるそれは、昼の終わりを告げるもの。
けれど、その音は――単なる時報などではなかった。
静かに、けれど確かに――またひとつ、不穏の影がこの国の平穏に忍び寄ろうとしていた。
午後の陽がカーテン越しに差し込む中、クラウディア・レイゼンは椅子に腰を下ろしていた。
その向かいにいるのは、この国の王、ライグ・ヴァルナーク。
小さな丸テーブルを挟み、二人の間に漂っていたのは静かな紅茶の香りと、重い沈黙。
「……上手く追い返せたとは思っていませんの」
クラウディアが口を開いたのはミリアが三杯目の紅茶をそっと置いた直後だった。
柔らかくカップを傾け、その表情には微かな陰が差していた。
「王都の使節団……今回の撤退は、ただの様子見――本命はこれからでしょうね」
「だろうな」
ライグは一口、紅茶をすする。
苦味のない、花のような薄紅の香りが口に広がるが、彼の目の奥には戦場と同じ鋭さが宿っていた。
「奴らがセラフィーナを取り戻そうとしたのは、『聖女』としてではない。王都の『所有物』としてだ。あの女が誰のものなのか――それを世界に知られるのが怖かったのだろう」
「……ええ」
クラウディアは淡く頷く。
窓の外では、小鳥の鳴き声がかすかに響いている。
まるで、平和を装った風景だ。
「私は、王都の事情を誰よりも知っています」
クラウディアは湯気の立つティーカップを手に、真っ直ぐに言葉を続けた。
「民が信じているのは奇跡ではなく、形だけの聖女制度……その制度を支えているのは、教会と貴族たちの都合の良い物語だけですわ」
そこまで言った時、彼女の瞳に怒りの色が浮かぶ。
「それが崩れれば、彼らの権威も、支配も、一瞬で瓦解する。だからこそセラフィーナ様のような『本物』は――目障りなのです」
紅茶を運んでいたミリアが、手を止める。
張りつめた空気に、思わず緊張が走った。
「……わかっていても、腹が立つな」
ライグの声が低く唸るように響き、空気がさらに重くなる。
手にしていた銀のスプーンが、彼の握力でわずかに歪んだ。
「俺は――」
言葉を強めながら、ライグは鋭く言い切った。
「俺は、彼女を、セラフィーナを『妻』として迎えた……契約など関係ない」
その声には、王としての威厳と男としての激しい怒りが宿っている。
「彼女は、この国の『王妃』だ。誰にも……誰にも奪わせはしない」
重苦しい沈黙が、数秒だけその場を支配する。
クラウディアが思わず、カップを置く手を震わせたのに気づかないほどに。
だが、次の瞬間――クラウディアが小さく微笑んだ。
「……やっぱり、そう仰るのですね」
表情は柔らかく、けれどその奥に秘めたものは、同じく熱い怒りと揺るがぬ信念だった。
「何がだ?」
少しだけトーンを緩めたライグの問いに、クラウディアは静かに答える。
「セラフィーナ様を『信じている』と、言ってくださいました」
クラウディアの笑みは、もはや仮面ではなかった。
誇り高き貴族の顔でも、王妃候補としての顔でもない――ただ、あの夜、自ら剣を抜いた女性に心を打たれた一人の少女のまっすぐな顔だった。
「……あの方は、誇り高く、美しく、そして……とても強いです!」
ミリアは、静かに言葉を継いだ。
「王妃として聖女として、ではありません。一人の人間として……私は心からセラフィーナ様を尊敬しています」
その声に、クラウディアは微笑み、ティーカップをそっと置いた。
「……やはり、皆、そう思うのね」
彼女は少し背を伸ばし、椅子の背にもたれながらライグに視線を送る。
「で、陛下。結局あの使者たち……諦めるつもりはないのでしょう?」
ライグは肩をすくめ、小さく鼻を鳴らす。
「そもそも……逃がすつもりなどない」
「……出ましたわね、独占力」
クラウディアが呆れたように言いながらも、唇の端を上げる。
「まぁ、私も人のことは言えませんわ。だって分かりますもの。あの人を、一度でも傍で見たら……手放したくなくなる気持ち」
「……獣人の愛は重いと、前に言っていただろう?」
「ええ、まさにその通り。人間の貴族社会では愛は交渉材料。でも、獣人のそれは──本能ですものね。だからこそ……羨ましい」
クラウディアの瞳が一瞬、物憂げに揺れた。
けれどすぐに、いつもの気丈な表情へと戻る。
「にしても……フェルグレイにここまで執着するとは、王都もずいぶんと余裕がなくなってきたようですわね」
「教会も、貴族も、もう正面からは立て直せまい」
ライグは静かに言った。
「崩れゆく制度を支えていたのは、セラフィーナの力……いや、彼女の存在そのものだった。だが、もう彼女はこの国の者だ。戻る理由などどこにもない」
「なのに、奪おうとする……」
「……その時点で、あいつらの負けだ」
クラウディアは笑った。
少し呆れて、けれどどこか楽しそうに。
「ふふ。まったく……陛下って、意外と愛情表現がストレートなんですのね。私、てっきり不器用で黙って背中で語るタイプかと思っていましたわ」
「……黙っていれば、伝わらない」
「本当、素敵なお方に出会われましたのね陛下も」
ミリアが、いつの間にかそっとティーポットを下げていた。
カップから立ち上る、薄紅色の香りだけが、まだ部屋の空気に名残を残している。
ふと、クラウディアがその香りに目を細める。
「……この紅茶、セラフィーナ様に淹れていただいたときと、同じ香り」
「セラ様が「少し甘めで」と仰ったので、今日の分もそうしました」
ミリアが嬉しそうに頷く。
「本当に……あの方がいてくださるだけで、空気まで変わるんです」
その言葉に、二人はしばし沈黙する。
外では鐘の音が鳴り響いた。
静かに、どこか遠くから聞こえてくるそれは、昼の終わりを告げるもの。
けれど、その音は――単なる時報などではなかった。
静かに、けれど確かに――またひとつ、不穏の影がこの国の平穏に忍び寄ろうとしていた。