戦場帰りの聖女は「穢れた」と断罪され追放されたけれど、獣人の王に拾われて契約結婚したら溺愛されました~追放した王国が滅びかけて土下座してきましたが私はもう戻りません~
第44話 牙を剥く王都の影【王国視点】
──聖堂地下。
荘厳な祈りの場であったはずの聖域は今や政治と欲望の渦巻く密室と化していた。
重厚な扉が外界を遮断し、燭台の灯が静かに揺れる中で二人の男が対峙する。
一人は、聖教会の最高位司祭──ベネディクトゥス。
法衣の金糸刺繍が鈍く光り、額にはいつもの汗が滲んでいる。
彼の指先が微かに震えるのは、燭光の揺らぎのせいではなかった。
もう一人──対するのは、王家の王太子、ジルヴァン。
黒い軍装に身を包み、深紅のスカーフを無造作に巻いたその姿はまるで戦場に出る将軍のようだ。
目元には余裕とも退屈ともつかぬ光を宿しながら、手にしたワイングラスを静かに傾けていた。
「……これが、今月分の報告書です」
低く、ベネディクトゥスが言う。
差し出された紙束には、整然と並んだ記録──奇跡の演出に失敗した記録がびっしりと綴られていた。
香を焚いても光は現れず、祈っても癒しは降りない。
人々の前で何度演出しても、嘗ての聖女の奇跡は再現されなかった。
ルクレツィア──新たに据えられた『聖女』による、すべての儀式は失敗。
「……群衆は、気づき始めています。「『穢れた聖女』こそが本物だったのではないか」と──」
「ほう」
ワイングラスが、コン、と卓に置かれた。
ジルヴァンは報告書に目を通さないまま、ただ面白がるように唇を歪めた。
「やはり、『本物』だったわけだ。セラフィーナ・ミレティス」
その名を口にしたとたん、空気がわずかに張り詰めた。
「民衆が再び彼女を望むようになれば、我々教会の──いえ、陛下のお立場にも影響が……」
慎重な言葉を選びながら、ベネディクトゥスが額の汗を拭う。
だが、ジルヴァンはその懸念に耳を貸さなかった。
寧ろ、楽しげに顎を撫で、虚空を見つめる。
「……あの女が、フェルグレイから連れてきた時を見たか?」
「……は?」
「一瞬だけ、ほんのわずか──見違えるほどに綺麗だった。あれは、いい。『王妃』の名に相応しいと思ったよ……ああいう女なら、隣に置いておく価値もある」
ベネディクトゥスは困惑を浮かべた。
「ジルヴァン殿下……まさか、『聖女』を再び王都に迎え入れるおつもりですか?」
「迎え入れるというより──取り込むだな」
その声には、一切の感情がなかった。
「王都に戻した上で、フェルグレイごと完全に王家の支配下に置く。そして『奇跡』の象徴として、もう一度聖女セラフィーナを玉座に据える──名ばかりの『王妃』として、な」
「で、ですが、それでは……我々教会の立場が……!」
声を荒げかけたベネディクトゥスに、ジルヴァンがゆっくりと視線を向けた。
その瞳は、冷たい水面のように凪いでいる。
「教会が民衆にとって不要になったなら──俺の手で『処分』するだけのことだ」
「…………っ」
「お前たちは、『神の声』を騙って権威を得てきた。その幻想がセラフィーナの祈りに負けるのなら──お前たちは、ただの詐欺師だろう?」
ベネディクトゥスは言葉を失い、声も出せなかった。
たった今、自分たち教会が予備の駒にされたことを、はっきりと理解したからだ。
ジルヴァンは無言のまま立ち上がり、赤いマントをひるがえす。
背中越しに、最後の言葉を落とした。
「『本物』は、美しくて、使い勝手がいい……なら、利用しない手はない」
コツ、コツ、と靴音が離れていく。
その音は、獲物を仕留めたあとの静寂のようだった。
──王子の瞳には、もう聖女への敬意も、教会への忠義もない。
あるのはただ、自分の王座のために、誰を踏み台にすべきかという冷徹な計算だけ。
そして今、その計算の中心にいるのは──すでに囚われの身となっている、『あの女』だった。
荘厳な祈りの場であったはずの聖域は今や政治と欲望の渦巻く密室と化していた。
重厚な扉が外界を遮断し、燭台の灯が静かに揺れる中で二人の男が対峙する。
一人は、聖教会の最高位司祭──ベネディクトゥス。
法衣の金糸刺繍が鈍く光り、額にはいつもの汗が滲んでいる。
彼の指先が微かに震えるのは、燭光の揺らぎのせいではなかった。
もう一人──対するのは、王家の王太子、ジルヴァン。
黒い軍装に身を包み、深紅のスカーフを無造作に巻いたその姿はまるで戦場に出る将軍のようだ。
目元には余裕とも退屈ともつかぬ光を宿しながら、手にしたワイングラスを静かに傾けていた。
「……これが、今月分の報告書です」
低く、ベネディクトゥスが言う。
差し出された紙束には、整然と並んだ記録──奇跡の演出に失敗した記録がびっしりと綴られていた。
香を焚いても光は現れず、祈っても癒しは降りない。
人々の前で何度演出しても、嘗ての聖女の奇跡は再現されなかった。
ルクレツィア──新たに据えられた『聖女』による、すべての儀式は失敗。
「……群衆は、気づき始めています。「『穢れた聖女』こそが本物だったのではないか」と──」
「ほう」
ワイングラスが、コン、と卓に置かれた。
ジルヴァンは報告書に目を通さないまま、ただ面白がるように唇を歪めた。
「やはり、『本物』だったわけだ。セラフィーナ・ミレティス」
その名を口にしたとたん、空気がわずかに張り詰めた。
「民衆が再び彼女を望むようになれば、我々教会の──いえ、陛下のお立場にも影響が……」
慎重な言葉を選びながら、ベネディクトゥスが額の汗を拭う。
だが、ジルヴァンはその懸念に耳を貸さなかった。
寧ろ、楽しげに顎を撫で、虚空を見つめる。
「……あの女が、フェルグレイから連れてきた時を見たか?」
「……は?」
「一瞬だけ、ほんのわずか──見違えるほどに綺麗だった。あれは、いい。『王妃』の名に相応しいと思ったよ……ああいう女なら、隣に置いておく価値もある」
ベネディクトゥスは困惑を浮かべた。
「ジルヴァン殿下……まさか、『聖女』を再び王都に迎え入れるおつもりですか?」
「迎え入れるというより──取り込むだな」
その声には、一切の感情がなかった。
「王都に戻した上で、フェルグレイごと完全に王家の支配下に置く。そして『奇跡』の象徴として、もう一度聖女セラフィーナを玉座に据える──名ばかりの『王妃』として、な」
「で、ですが、それでは……我々教会の立場が……!」
声を荒げかけたベネディクトゥスに、ジルヴァンがゆっくりと視線を向けた。
その瞳は、冷たい水面のように凪いでいる。
「教会が民衆にとって不要になったなら──俺の手で『処分』するだけのことだ」
「…………っ」
「お前たちは、『神の声』を騙って権威を得てきた。その幻想がセラフィーナの祈りに負けるのなら──お前たちは、ただの詐欺師だろう?」
ベネディクトゥスは言葉を失い、声も出せなかった。
たった今、自分たち教会が予備の駒にされたことを、はっきりと理解したからだ。
ジルヴァンは無言のまま立ち上がり、赤いマントをひるがえす。
背中越しに、最後の言葉を落とした。
「『本物』は、美しくて、使い勝手がいい……なら、利用しない手はない」
コツ、コツ、と靴音が離れていく。
その音は、獲物を仕留めたあとの静寂のようだった。
──王子の瞳には、もう聖女への敬意も、教会への忠義もない。
あるのはただ、自分の王座のために、誰を踏み台にすべきかという冷徹な計算だけ。
そして今、その計算の中心にいるのは──すでに囚われの身となっている、『あの女』だった。