戦場帰りの聖女は「穢れた」と断罪され追放されたけれど、獣人の王に拾われて契約結婚したら溺愛されました~追放した王国が滅びかけて土下座してきましたが私はもう戻りません~

第45話 王、城を穿つ

 ――森は、静かだった。

 だがその静寂は、すでに『戦場』のそれだった。

 深夜――王国南東の外れ、森林地帯にひっそりと築かれた礼拝堂跡地──建物は石造りの簡素な祈りの場に見えるが、実際には王都の密命を帯びた拠点。
 獣人王国に潜伏し、秘密裏に政治工作を行う者たちの隠れ蓑だ。
 その前に、獣の影を率いた男が立つ。
 黒衣に銀の髪――月を背にした姿は、まるで夜そのもののようだった。
 黒狼王の瞳が、石の壁を真っすぐに射抜く。
 その背後には、数十名の精鋭部隊。
 耳を伏せ、気配を殺した獣人たちが、主の号令を待っていた。
 彼は無言で、前方の結界装置に手をかざす。

「……フェルグレイ王国への不当な介入、及び王妃誘拐の証拠を以て即時制圧を開始する」

 側近が静かに呟くと、手にした魔術具が淡く光を放つ。

 バンッ!!

 大気が裂ける音と共に、礼拝堂の外壁を覆っていた不可視の魔道障壁が弾け飛んだ。

「突入――!!」

 ライグの号令が森に響いた。

 獣人たちが一斉に駆ける。
 風を裂く疾走、壁を砕く拳、鎖のように連携した動きが石造りの堂を貫く。
 扉が弾き飛び、煙が舞い上がる。
 その瞬間、内部から――祈りのような、しかし確かな力が脈動した。

   ▽

 冷たい床に膝をつきながら、セラフィーナは静かに目を閉じていた。

 長く祈っていた。
 魔術ではなく、そして祈りでもない。
 これは──心の奥から湧き上がる、『意志』だ。
 幾重にも重ねられた封印術式。
 魔力を封じ、癒しを遮断し、自由を奪う腕輪の内側。
 その構造と『癖』を、彼女は何日もかけて読み解いてきた。
 祈るように見えたその姿は、実際には冷静な観察と検証の連続。
 指先ひとつで術式のわずかな乱れを感知し、『綻び』に意識を注ぎ続けていた。

 そして今──

「……もう、いいだろう」

 静かに、セラは囁く。
 その声にはかすかな怒りと、そして揺るがぬ強さがあった。
 両の手首を前に出す。
 銀の腕輪。
 その表面に、いつの間にか微細なひびが走っていた。

「『力』を使えないのなら、『知恵』を使えばいい……」

 言葉と同時に、彼女は呼吸を整え、手のひらをわずかに反らす。

 ──カチリ。

 内部の術式が、一つ音を立てて崩れた。

「『祈れない』なら、『想い』を重ねればいい……」

 もう一方の腕輪にも、同じく細かな亀裂。
 そのひとつひとつが、彼女の意志によって揺らがされ、崩されていく。

 ──パリ……パリパリッ。

 魔道具の核心部にノイズが走る。
 連鎖するように、封印の術式が次々と反応不能に陥っていく。

 ──パァンッ!!

 砕けた。
 鈍い音とともに、銀の腕輪が弾け飛び、床に転がった。
 鎖は砕かれた――その瞬間、セラの内に眠っていた『力』が、淡く膨らんだ。
 だが彼女は力を使わない。ただ、ゆっくりと立ち上がる。
 足元に落ちた破片を一瞥し──その先にある扉へと、静かに歩き出した。

(甘く見たな!よし、このまま……)

 その背中には戦場にあった頃と同じ気配が宿っていた。
 かつて、命を護るために剣を抜き、癒しを与え、祈りを忘れなかった戦場の聖女。

 そして──崩れた扉の向こうから、誰かが駆けてくる気配があった。
 闇の中、ただ一人を捜し求めるように。
 黒衣が翻る。
 月の光を受けて銀の髪が風に揺れる。

 現れたのは──彼だった。

「セラ……!」

 息を切らし、声を震わせながら、ライグが駆け寄る。
 その顔を見た瞬間、セラフィーナの胸に熱いものがこみ上げた。

 これまで張りつめていた意志。
 耐えてきた孤独。
 祈れない夜を超えて、ひとり立ち続けてきた、心の鎧。

 その全てが彼の一言で音もなく崩れ落ちる。

「……来てくれたんだな」

 震える声が、喉から漏れた。
 次の瞬間にはもう、涙が一筋頬をつたっている。

「セラ……無事、で……」

 ライグもまた、手を伸ばす。
 けれど触れるよりも先に、セラフィーナの方からその胸に倒れ込んだ。

「ごめんなさい、陛下……私……勝手に……っ」

 その肩が、小さく震えている。
 いつも穏やかで、強くて笑っていた彼女が──今だけは、涙を隠せなかった。

「……何も謝るな」

 低く、噛みしめるような声。
 ライグはその身体を、ぎゅっと強、腕の中に抱きしめた。

「……俺が、遅かったんだ……お前を、こんなにも……待たせてしまった」

 返す言葉も出ないまま、セラフィーナはその胸に顔を埋める。
 遠くで仲間たちの足音が近づいてくる気配。
 けれど二人だけの時間は、確かに、そこにあった。

 闇の中で、祈りの灯は消えていなかった。
 そして今──その灯に、王が手を伸ばしたのだ。
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