戦場帰りの聖女は「穢れた」と断罪され追放されたけれど、獣人の王に拾われて契約結婚したら溺愛されました~追放した王国が滅びかけて土下座してきましたが私はもう戻りません~

第06話 森を越えたその先は

 風の音が、鋭く木々を鳴らしている。
 葉擦れの音は獣の唸りのように、不安を掻き立てていた。
 セラフィーナは、震える少女を背負いながら森の中を歩く。
 足元の草をかき分けながら、湿った土を踏みしめひとつひとつの息が苦しい。

 その腕の中には、もう一人の小さな男の子がいる。
 片手で彼の身体を支え、もう片方の腕で倒れかける少女を庇う。
 その姿は、もはや限界を超えていた。

「……もう少し、だから。がんばれ」

 小さく、自分に言い聞かせるようにセラフィーナは呟いた。
 呼吸は荒く、身体中が重い。
 数日間、まともに食べていない。
 休息もなければ、魔力も残りわずか。

 けれど──止まるわけにはいかなかった。

 カルミアの体温は下がっている。
 傷の癒しは間に合ったが、熱が引かず意識はほとんど戻らない。
 背中のその重みが、命の重さのようにセラフィーナの心を焦らせた。

「……少しでも、安全な場所を……」

 木々の隙間から淡く差し込む光を目指して、前に進む。
 けれど、その背後では何かが迫る気配があった。

(──魔物だ……こんな時に)

 森に入ってから、何度もその気配を感じていた。
 腐った肉の匂い、土を踏み荒らす不規則な足音。
 獣とは異なる、どこかねじれた存在の気配。
 セラフィーナは唇を噛み、足を止めない。
 自分ひとりなら逃げ切れたかもしれない。
 でも今は──この子たちがいる。

「ノア、大丈夫か?」

 腕の中の男の子に問いかける。
 小さくこくりと頷く気配。

「うん……でも、カルミアが……つらそうで……」

 かすれる声――泣くのを必死に堪えているのがわかる。

「すぐに、安全なところへ行くぞ。だから、信じて──」

 その時、背後で木が折れる音がした。
 鋭い音とともに、地響きのような振動が足元に伝わってくる。
 セラフィーナの背筋に冷たいものが走った。

(──追いつかれるな)

 魔力を使えば応戦できる。
 けれど、それをすれば今度こそ力が尽きる。
 セラフィーナは人より魔力が多いが、それでも今の体力では魔物を倒せても、カルミアを守る力がなくなる。
 けれど、逃げ切れる保証も──ない。

「くそったれ……お願い、神よ……せめてもう少しだけ……」

 心の中で汚い言葉と祈りを捧げながら、セラフィーナは木々の合間に目を凝らした。
 視界の先、小さな崖の下に岩陰のような地形が見えた──あそこなら、身を隠せるかもしれない。
 足を踏み出そうとしたその瞬間。

 「ガァァァァ……ッ!」

 森の奥から、魔物の咆哮が響いた。
 ノアがびくりと身体を震わせ、セラフィーナの服を掴む力が強まる。

「セラ……っ、あれ……来てる……!」
「大丈夫だ!絶対に──絶対に二人を守るから!」

 ふらつく足に力を込め、セラフィーナは二人を抱きかかえるようにしながら走り出した。
 背中に少女の重み。
 腕の中に少年の温もり。
 そのすべてを抱いて、崖を下る。
 もう、神の祈りは届かないかもしれない。
 けれどそれでも──この命だけは、決して手放したくなかった。

 そして、逃げ込んだ岩陰の手前──空気が、一変した。

 吹き抜ける風に、鉄と煙の匂いが混じる。
 地を打つ音に重い足音。
 何かが森を裂いて近づいてくる。

 ──それは、魔物ではなかった。

 セラフィーナが顔を上げたとき、木々の間に黒い影が現れた。
 銀に光る刃、全身を黒い鎧に包んだ者たちが彼女の前に現れる。
 その胸当てには、狼の紋章。
 そして先頭の者が、低く声を発した。

「人間……? なぜ獣人の子どもを抱えている」

 先頭に立つ騎士が、鋭い視線を向けてくる。
 頭部には耳を模した黒革の飾りがあり、その金の瞳はまるで本物の狼のように光っていた。
 ノアが怯えて、セラフィーナの胸元に顔を埋める。

「セラ……この人たち、怖い……」
「大丈夫だ、落ち着けノア」

 セラはそっとノアを抱きしめ、カルミアの身体を支え直す。

「名を名乗れ」

 低く、威圧する声が響く。

「……セラフィーナ・ミレティス、です。私は、この子たちを……助けただけです」

「助けただと?この森に人間の女が単独で入るなど有り得ん……お前、何者だ」

 別の騎士が鼻を鳴らし、剣の先をセラフィーナに突きつけた。

「この双子に危害を加えたのではないか。獣人の血を狙った密猟者かもしれん」
「違います!」

 セラは声を荒げてしまったが、すぐに息を整えた。

「この子たちは……魔物に襲われていたのです。私はそれを見て……助けた、それだけです」
「証拠はあるか」
「……この子たちの身体を、見てください」

 セラはそっとカルミアを横たえた。
 裂けていた傷は塞がっているが、周囲にはまだ血の跡が残っている。
 騎士の一人が眉をひそめ、しゃがみこんで様子を確認した。

「確かに……この傷の深さなら、普通は……死んでいる」
「私は癒しの力が使えます。人であれ獣人であれ、関係ありません」

 セラは淡々と言った。

「……癒しの力?」

 先頭の騎士が目を細めている。
 騎士たちは互いに視線を交わした。
 その空気には疑念と同時に、わずかな揺らぎがあった。

「……連れていこう」

 先頭の騎士が短く命じた。

「なっ……!」
「この子らも一緒にだ。保護の名目でフェルグレイへ。だが人間の女、貴様は拘束下とする。何を企んでいようと王の目に晒せば白黒つく」

 ノアがセラフィーナの袖を強く掴んだ。

「セラフィーナを、悪い人じゃないって言って!この人は……僕たちを助けてくれたのに!」
「……黙れ、子供の分際で――」

 騎士の一人が吐き捨てるように言う。
 しかし、その金の瞳は揺れていた。
 セラフィーナはノアの手にそっと自分の手を重ねた。

「大丈夫。行きましょう……しかし――」

 一つ、大きく息を吸って、騎士の一人をセラフィーナが睨みつけた。

「二人を傷つけようとするならば、私は容赦しない」
「っ……!」

 睨みつけるように落ち着いたトーンで答える彼女の姿に、騎士の一人が少しだけ引き下がる。

 他の騎士たちも少しだけ彼女の目力に一瞬怖気つく様子が見られたが、すぐに無言で、セラフィーナ達を囲んだ。
 鎧の軋む音、馬のいななき、鉄の匂い。
 森の空気が一変し、先ほどまでの魔物の気配が遠ざかっていく。

 ──黒狼王の近衛騎士団。

 その名が、この後セラの運命を大きく変える事になるとはまだ誰も知らなかった。
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