契約結婚と思っていたら溺愛されていたようです。
「ではルシアーナ様、こちらに署名していただいたら、ご結婚が成立となります」
婚約者の秘書から差し出された書類に目を通す。表題には『婚姻誓約書』とある。事項に記された条件の行は、『何があろうと夫を愛すること』と記載があり、私は改めてこの結婚が契約上のものであると理解したのだ。
はじまりは三ヶ月前。母を通して唐突に縁談が舞い込んだかと思うと、顔合わせの場になぜか縁談相手の秘書を名乗る男が現れたことからだ。
どうして本人でなく秘書なのだ、と唖然とした私に、秘書は契約を持ちかけてきた。
『私の主と結婚していただけるなら、貴女の父親が背負った借金を肩代わりいたします』
断る理由のない内容に、私は即座に承諾したのだ。
子爵である父ザハードの借金は、ギャンブルや事業の失敗で出来たものではない。信頼していた古くからの友人に裏切られ、連帯保証人となってしまった父が借金を背負わされたのだ。安易に借金の保証人となってしまった父が悪いのだが、優しい人なだけに不憫にも思う。
だから、助けてあげたいと思ったのだ。
そもそも、私は二十六歳で、貴族で言う〝行き遅れ〟だった。侯爵家の子息と婚約していた過去もあるが、可愛らしい男爵令嬢と浮気され婚約破棄した。一度でも婚約破棄をしてしまうと、私の価値はないも同然だった。つまり、私にはもう後がない。
父の借金を肩代わりされなくとも、私は運よく舞い込んできたこの縁談を断ることなど、端から選択肢にないのだ。
しかも、相手はダイナハルト伯爵家の令息。世間では、自身の領地を我が子のように考える、と評判の家門だ。そんな未来ある家門に嫁げるだなんて、夢のようだった。
もちろん、そんなに甘いものではなかったけれど……。
令息は、婚約を済ませ結婚が決まっても、一切その姿を現さなかった。巷でも姿を見た者はいないらしいと噂があるが、まさか婚約者にすら姿を見せないとは……。その時点で、なんとなくこの結婚が彼の望むものではないのだろう、ということが察せられた。
そして彼は私の予想通り、婚約期間の三ヶ月間ずっと姿を現さないまま、ついに婚姻誓約書を秘書に持たせてきたのだ。
「……あの、この『何があろうと夫を愛すること』って誓わなければならないですか?」
「それが主の第一条件となりますので、拒否は受け付けられません」
「契約違反、ってことですか……?」
「違反も何も、契約はこれからではないですか。貴女には、この条件を踏まえた上で結婚を承諾していただく他ありませんが、今ならまだ拒否しても構いませんよ。ただ……貴女の父親が背負う借金を肩代わりする、という約束も叶えることができなくなりますが」
それって拒否権がないのと同じじゃない……。小さくため息を吐いてから、渋々と筆を取った。署名を終えると、目の前で足を組む秘書がニヤリと笑みを浮かべていた――。
一度も会わないまま結婚の手続きが進み、私は晴れて伯爵夫人となった。あの秘書に急かされて、家族と暫しの別れを告げ夫である男の元へ向かう。道中の馬車では、見慣れた街並みから知らない土地の景色に変わっていく様子に、不安を募らせた。けれど、すぐに首を振って前を向く。
愛のない政略結婚なんて、貴族社会では当たり前だ。契約結婚を考えるような人だから、夫はきっと私を愛さないだろう。でもだからといって、私が彼を突き放す必要などない。貰い手のない女を貰ってくれたこと、そして我が家の危機を救ってくれたことを感謝して接するのだ。
そうしたら、きっと愛されなくとも情ぐらい感じてくれるかもしれない。せいぜい捨てられないよう、私は良き伯爵夫人にならなければ。
顔も知らぬ夫を適当な男の姿で想像し、天に祈りを捧げる。すると、なんだか頑張れるような気がした。
*
十日かけて夫のいる地に辿り着き、馬車を降りる。そこへ、やはりあの秘書が現れた。
「主が部屋でお待ちです。ご案内します」
そう告げると、出迎えてくれた使用人を差し置いて、秘書自ら私を部屋に案内しはじめた。
「あの……旦那様は?」
「申し訳ございません。主は顔を晒す面倒事に巻き込まれることが多いので、出迎えには来られないのです」
「面倒事……?」
顔を晒したら面倒事に巻き込まれる……? という不思議な言葉に疑問を抱く。
「主は基本、ご自分の部屋で一日を過ごされておいでです。外に出る際には、厳重に警備を敷いて全身を布で覆わなければならないので、主(おも)に私が代わりに出向いています。使用人の者たちも、主の素顔は知りません」
「はぁ……?」
夫の想像がどんどん個性豊かになっていき、最終的にはミイラのようになってしまった。ミイラの夫を想像しながら室内を歩き進めると、秘書は大きな扉の前で立ち止まる。
「主の姿をお見せするのは、〝貴女だけ〟ということですよ」
「はい?」
聞き返したのも束の間、扉は彼の手で開けられた。緊張しつつ中へ足を踏み入れると、窓の外を眺める男性の後ろ姿が視界に映る。
その男性は物音に気付いて振り向くと、私の瞳をその目でしっかりと捉えた。
絶世の美青年とは、正に彼のことだった。
薄く色づいた頬、光を反射させるプラチナブロンドの髪、程よく筋肉質な手足……全てが、誰もが好む高級品のように麗しかった。
「――えっ」
思わず声を漏らす私に、秘書の主らしき彼は急ぎ足で歩み寄る。
「ルシアーナ……やっと君に会えた……」
惚けているうちに抱き締められ、混乱から顔の筋肉が誤作動を起こす。
「ほっ!? はっ、な、ええっ!?」
あらゆる声を発しながら狼狽える私を見て、秘書は堪えきれず吹き出している。
絶世の美青年は、強く抱き締めてから私の体を離すと、その人間離れした顔を間近で披露する。『美しい』なんて言葉では言い表せないほど、端正な顔だった。
これは確かに、外に出たら老若男女問わず虜にされるだろう……と容易に想像できてしまった。
私がぼんやりと彼の顔を凝視していると、秘書がゴホンと咳払いをする。
「この方が私の主であり、貴女の夫となりました、リュシオン・ダイナハルト様でございます」
改めて紹介された夫――リュシオンは、ハッとした様子で背筋を伸ばす。
「久しぶり、ルシアーナ……ずっと君に会いたかったよ」
どう考えても初対面の挨拶ではない彼の言葉に、私は首を傾げる。
「あのぉ……久しぶり、とは……?」
「あぁ……覚えていないんだね……」
私の反応にリュシオンは一瞬悲しそうな顔をして、だけど……となぜかすぐに笑みを浮かべる。
「……それでこそ君らしいな、ルシアーナ」
艶かしい手つきで頬を撫でられ、体が跳ねる。彼の笑みには、天使のような神々しさと共に、不気味な精神が滲み出ているようだった。
「君の態度は昔から変わらないなぁ……覚えてる? 僕たち、十年前にも会ってるんだよ?」
「えっ……?」
「やっぱり覚えてないかぁ……君は僕の顔を見た途端、天国だと勘違いして気を失ったから、仕方ないけど……」
何の話だ、と十年前の記憶を急速に巡っていく。そして思い出した。
十六歳の頃、私は一度だけ当時の婚約者である侯爵令息と仮面舞踏会を訪れた。その際、婚約者が急な仕事で戻らなければならない、と私を置いて舞踏会場を去ってしまった。結局は、会場のどこかで待ち合わせをしていた浮気相手と夜を過ごしていたのだが、とにかく私は独りになってしまったのだ。
どうしたものかとバルコニーで外の景色を眺めていたとき、一人の青年がやってきた。仮面越しにも分かる、私と年の近そうな若い男だった。
彼は私の姿を見つけると、どうしたのかと問いかけてきた。
「実は、一緒に来ていた婚約者が仕事に戻らなければならなくなって……独りでどう過ごせばいいかと迷っていたところなんです」
事情を説明すると、青年は同情の言葉で慰めてくれた。そして、そのまま暫く私の話し相手となってくれたのだ。
酒も入り、くだらない話に花を咲かせて楽しくなってきた私は、仮面を外さないかと彼に提案した。この仮面舞踏会では、互いが気に入った相手にのみ素顔を晒してもいいというルールがあった。私は彼に人として好感を抱き、その提案をしたのだ。
彼もまた、私のことを悪くは思っていないようで、悩みながらも了承してくれた。
せーの、と互いに仮面を外した私は、目の前に佇む美丈夫に腰を抜かし、先ほど彼が言った通り気を失ったのだ――。
あまりの衝撃から忘れてしまっていた出来事を、ようやく思い出した私は、再びリュシオンの顔を凝視する。発光しすぎて見えづらいけれど、確かにあの時の彼だった。
「私ったらどうして忘れていたのかしら……」
眼をシパシパと瞬かせながら、当時の気持ちが蘇る。この美しすぎる顔を忘れるなんて、さっきまでの自分が有り得ない。
「思い出してくれた?」
「えぇ、ハッキリと……」
潔く肯定すると、リュシオンは微笑みを浮かべ、嬉しいと告げる。彼が笑ったせいで、発光が増したような気がする。
「君と舞踏会場で出会ったときから、僕は君と結婚すると決めていたんだ」
「……どうしてですか?」
「君だけが僕の内面を見てくれたから」
「そうでしたっけ……? でも、あの場には私以外にも内面を見てくれる人はいたはずじゃないですか」
「そんなことない。素顔を見たら、みんな態度を変えていた」
「私も気絶したんだから同じじゃないですか」
どんどん質問していくと、リュシオンは懐かしげに目を伏せる。その妖艶な姿に、私は再び見惚れてしまった。
「誰とも同じじゃない……気絶する瞬間、朦朧とした君は僕に向かってこう言ったんだ……『例え貴方が悪魔で私を地獄へ連れ去ろうとしたのだとしても、受け入れられる』と……」
「え?」
「この言葉を聞いて、僕は気付いた。みんな僕の姿を天使だ神だと崇めるけど、本当の心は薄暗い悪魔のようなものだと知ったら、きっと幻滅する……だけど、君は、君だけは……僕のこの黒く濁った内面ごと愛してくれるんだろうなって……!!」
私の手を包み込むように両手で握りしめる彼は、一歩後ずさろうとする私を掴んで逃がさない。美しいと思っていたその瞳は、歪んだ愛で光を無くしている。
「ルシアーナ……君だけが僕の全てを愛してくれる、完璧な女性なんだ……。あの浮気者の元婚約者となかなか別れてくれないから、長いこと求婚できずに困っていたんだけど、やっと君と結ばれることができたよ……」
「だ、旦那様……手を、離して――」
「嫌だ。君の手も、体も、心も……もう全部僕のものだ。僕だけが愛される、僕の奥さん……」
虚ろな瞳に耐えきれず、無言で眺めていた秘書に目線で助けを求める。しかし、秘書の彼は真顔で突き放した。
「貴女が主をこんなふうにしたのですから、責任を取ってください」
「そ、そんな……」
体を震わせつつ、恐る恐るもう一度リュシオンを見てみると、彼の濁った瞳に捕われる。神々しかった黄金色の発光は消え失せ、代わりにドス黒い何かが彼の周りを包んでいた。
「大好きなルシアーナ……これからはたくさん僕を愛してね?」
ときめきよりも恐ろしさの方が勝る、悪魔の美声だった――。
婚約者の秘書から差し出された書類に目を通す。表題には『婚姻誓約書』とある。事項に記された条件の行は、『何があろうと夫を愛すること』と記載があり、私は改めてこの結婚が契約上のものであると理解したのだ。
はじまりは三ヶ月前。母を通して唐突に縁談が舞い込んだかと思うと、顔合わせの場になぜか縁談相手の秘書を名乗る男が現れたことからだ。
どうして本人でなく秘書なのだ、と唖然とした私に、秘書は契約を持ちかけてきた。
『私の主と結婚していただけるなら、貴女の父親が背負った借金を肩代わりいたします』
断る理由のない内容に、私は即座に承諾したのだ。
子爵である父ザハードの借金は、ギャンブルや事業の失敗で出来たものではない。信頼していた古くからの友人に裏切られ、連帯保証人となってしまった父が借金を背負わされたのだ。安易に借金の保証人となってしまった父が悪いのだが、優しい人なだけに不憫にも思う。
だから、助けてあげたいと思ったのだ。
そもそも、私は二十六歳で、貴族で言う〝行き遅れ〟だった。侯爵家の子息と婚約していた過去もあるが、可愛らしい男爵令嬢と浮気され婚約破棄した。一度でも婚約破棄をしてしまうと、私の価値はないも同然だった。つまり、私にはもう後がない。
父の借金を肩代わりされなくとも、私は運よく舞い込んできたこの縁談を断ることなど、端から選択肢にないのだ。
しかも、相手はダイナハルト伯爵家の令息。世間では、自身の領地を我が子のように考える、と評判の家門だ。そんな未来ある家門に嫁げるだなんて、夢のようだった。
もちろん、そんなに甘いものではなかったけれど……。
令息は、婚約を済ませ結婚が決まっても、一切その姿を現さなかった。巷でも姿を見た者はいないらしいと噂があるが、まさか婚約者にすら姿を見せないとは……。その時点で、なんとなくこの結婚が彼の望むものではないのだろう、ということが察せられた。
そして彼は私の予想通り、婚約期間の三ヶ月間ずっと姿を現さないまま、ついに婚姻誓約書を秘書に持たせてきたのだ。
「……あの、この『何があろうと夫を愛すること』って誓わなければならないですか?」
「それが主の第一条件となりますので、拒否は受け付けられません」
「契約違反、ってことですか……?」
「違反も何も、契約はこれからではないですか。貴女には、この条件を踏まえた上で結婚を承諾していただく他ありませんが、今ならまだ拒否しても構いませんよ。ただ……貴女の父親が背負う借金を肩代わりする、という約束も叶えることができなくなりますが」
それって拒否権がないのと同じじゃない……。小さくため息を吐いてから、渋々と筆を取った。署名を終えると、目の前で足を組む秘書がニヤリと笑みを浮かべていた――。
一度も会わないまま結婚の手続きが進み、私は晴れて伯爵夫人となった。あの秘書に急かされて、家族と暫しの別れを告げ夫である男の元へ向かう。道中の馬車では、見慣れた街並みから知らない土地の景色に変わっていく様子に、不安を募らせた。けれど、すぐに首を振って前を向く。
愛のない政略結婚なんて、貴族社会では当たり前だ。契約結婚を考えるような人だから、夫はきっと私を愛さないだろう。でもだからといって、私が彼を突き放す必要などない。貰い手のない女を貰ってくれたこと、そして我が家の危機を救ってくれたことを感謝して接するのだ。
そうしたら、きっと愛されなくとも情ぐらい感じてくれるかもしれない。せいぜい捨てられないよう、私は良き伯爵夫人にならなければ。
顔も知らぬ夫を適当な男の姿で想像し、天に祈りを捧げる。すると、なんだか頑張れるような気がした。
*
十日かけて夫のいる地に辿り着き、馬車を降りる。そこへ、やはりあの秘書が現れた。
「主が部屋でお待ちです。ご案内します」
そう告げると、出迎えてくれた使用人を差し置いて、秘書自ら私を部屋に案内しはじめた。
「あの……旦那様は?」
「申し訳ございません。主は顔を晒す面倒事に巻き込まれることが多いので、出迎えには来られないのです」
「面倒事……?」
顔を晒したら面倒事に巻き込まれる……? という不思議な言葉に疑問を抱く。
「主は基本、ご自分の部屋で一日を過ごされておいでです。外に出る際には、厳重に警備を敷いて全身を布で覆わなければならないので、主(おも)に私が代わりに出向いています。使用人の者たちも、主の素顔は知りません」
「はぁ……?」
夫の想像がどんどん個性豊かになっていき、最終的にはミイラのようになってしまった。ミイラの夫を想像しながら室内を歩き進めると、秘書は大きな扉の前で立ち止まる。
「主の姿をお見せするのは、〝貴女だけ〟ということですよ」
「はい?」
聞き返したのも束の間、扉は彼の手で開けられた。緊張しつつ中へ足を踏み入れると、窓の外を眺める男性の後ろ姿が視界に映る。
その男性は物音に気付いて振り向くと、私の瞳をその目でしっかりと捉えた。
絶世の美青年とは、正に彼のことだった。
薄く色づいた頬、光を反射させるプラチナブロンドの髪、程よく筋肉質な手足……全てが、誰もが好む高級品のように麗しかった。
「――えっ」
思わず声を漏らす私に、秘書の主らしき彼は急ぎ足で歩み寄る。
「ルシアーナ……やっと君に会えた……」
惚けているうちに抱き締められ、混乱から顔の筋肉が誤作動を起こす。
「ほっ!? はっ、な、ええっ!?」
あらゆる声を発しながら狼狽える私を見て、秘書は堪えきれず吹き出している。
絶世の美青年は、強く抱き締めてから私の体を離すと、その人間離れした顔を間近で披露する。『美しい』なんて言葉では言い表せないほど、端正な顔だった。
これは確かに、外に出たら老若男女問わず虜にされるだろう……と容易に想像できてしまった。
私がぼんやりと彼の顔を凝視していると、秘書がゴホンと咳払いをする。
「この方が私の主であり、貴女の夫となりました、リュシオン・ダイナハルト様でございます」
改めて紹介された夫――リュシオンは、ハッとした様子で背筋を伸ばす。
「久しぶり、ルシアーナ……ずっと君に会いたかったよ」
どう考えても初対面の挨拶ではない彼の言葉に、私は首を傾げる。
「あのぉ……久しぶり、とは……?」
「あぁ……覚えていないんだね……」
私の反応にリュシオンは一瞬悲しそうな顔をして、だけど……となぜかすぐに笑みを浮かべる。
「……それでこそ君らしいな、ルシアーナ」
艶かしい手つきで頬を撫でられ、体が跳ねる。彼の笑みには、天使のような神々しさと共に、不気味な精神が滲み出ているようだった。
「君の態度は昔から変わらないなぁ……覚えてる? 僕たち、十年前にも会ってるんだよ?」
「えっ……?」
「やっぱり覚えてないかぁ……君は僕の顔を見た途端、天国だと勘違いして気を失ったから、仕方ないけど……」
何の話だ、と十年前の記憶を急速に巡っていく。そして思い出した。
十六歳の頃、私は一度だけ当時の婚約者である侯爵令息と仮面舞踏会を訪れた。その際、婚約者が急な仕事で戻らなければならない、と私を置いて舞踏会場を去ってしまった。結局は、会場のどこかで待ち合わせをしていた浮気相手と夜を過ごしていたのだが、とにかく私は独りになってしまったのだ。
どうしたものかとバルコニーで外の景色を眺めていたとき、一人の青年がやってきた。仮面越しにも分かる、私と年の近そうな若い男だった。
彼は私の姿を見つけると、どうしたのかと問いかけてきた。
「実は、一緒に来ていた婚約者が仕事に戻らなければならなくなって……独りでどう過ごせばいいかと迷っていたところなんです」
事情を説明すると、青年は同情の言葉で慰めてくれた。そして、そのまま暫く私の話し相手となってくれたのだ。
酒も入り、くだらない話に花を咲かせて楽しくなってきた私は、仮面を外さないかと彼に提案した。この仮面舞踏会では、互いが気に入った相手にのみ素顔を晒してもいいというルールがあった。私は彼に人として好感を抱き、その提案をしたのだ。
彼もまた、私のことを悪くは思っていないようで、悩みながらも了承してくれた。
せーの、と互いに仮面を外した私は、目の前に佇む美丈夫に腰を抜かし、先ほど彼が言った通り気を失ったのだ――。
あまりの衝撃から忘れてしまっていた出来事を、ようやく思い出した私は、再びリュシオンの顔を凝視する。発光しすぎて見えづらいけれど、確かにあの時の彼だった。
「私ったらどうして忘れていたのかしら……」
眼をシパシパと瞬かせながら、当時の気持ちが蘇る。この美しすぎる顔を忘れるなんて、さっきまでの自分が有り得ない。
「思い出してくれた?」
「えぇ、ハッキリと……」
潔く肯定すると、リュシオンは微笑みを浮かべ、嬉しいと告げる。彼が笑ったせいで、発光が増したような気がする。
「君と舞踏会場で出会ったときから、僕は君と結婚すると決めていたんだ」
「……どうしてですか?」
「君だけが僕の内面を見てくれたから」
「そうでしたっけ……? でも、あの場には私以外にも内面を見てくれる人はいたはずじゃないですか」
「そんなことない。素顔を見たら、みんな態度を変えていた」
「私も気絶したんだから同じじゃないですか」
どんどん質問していくと、リュシオンは懐かしげに目を伏せる。その妖艶な姿に、私は再び見惚れてしまった。
「誰とも同じじゃない……気絶する瞬間、朦朧とした君は僕に向かってこう言ったんだ……『例え貴方が悪魔で私を地獄へ連れ去ろうとしたのだとしても、受け入れられる』と……」
「え?」
「この言葉を聞いて、僕は気付いた。みんな僕の姿を天使だ神だと崇めるけど、本当の心は薄暗い悪魔のようなものだと知ったら、きっと幻滅する……だけど、君は、君だけは……僕のこの黒く濁った内面ごと愛してくれるんだろうなって……!!」
私の手を包み込むように両手で握りしめる彼は、一歩後ずさろうとする私を掴んで逃がさない。美しいと思っていたその瞳は、歪んだ愛で光を無くしている。
「ルシアーナ……君だけが僕の全てを愛してくれる、完璧な女性なんだ……。あの浮気者の元婚約者となかなか別れてくれないから、長いこと求婚できずに困っていたんだけど、やっと君と結ばれることができたよ……」
「だ、旦那様……手を、離して――」
「嫌だ。君の手も、体も、心も……もう全部僕のものだ。僕だけが愛される、僕の奥さん……」
虚ろな瞳に耐えきれず、無言で眺めていた秘書に目線で助けを求める。しかし、秘書の彼は真顔で突き放した。
「貴女が主をこんなふうにしたのですから、責任を取ってください」
「そ、そんな……」
体を震わせつつ、恐る恐るもう一度リュシオンを見てみると、彼の濁った瞳に捕われる。神々しかった黄金色の発光は消え失せ、代わりにドス黒い何かが彼の周りを包んでいた。
「大好きなルシアーナ……これからはたくさん僕を愛してね?」
ときめきよりも恐ろしさの方が勝る、悪魔の美声だった――。

